Kuroの徳地散歩Yicin-Net 文芸室

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【徳地散歩1】大原湖周辺・今は桜が 88/ 4/17
【徳地散歩2】長者ケ原 88/ 4/17
【徳地散歩3】サイクリング大会のお知らせ 88/ 4/27
【徳地散歩4】その歴史をさぐる1 88/ 5/ 4
【徳地散歩5】その歴史2 大化の改新の頃 88/ 5/ 4
【徳地散歩6】徳地隆盛の頃 俊乗房重源 88/ 5/ 4
【徳地散歩7】大内氏の頃 88/ 5/ 8
【徳地散歩8】長者ケ原名前の由来 88/ 5/13
【徳地散歩9】串の鯖(地名)の由来 88/ 5/22
【徳地散歩10】八坂・三谷 88/ 6/ 5
【徳地散歩11】滑(なめら)の由来 88/ 6/26
【徳地散歩12】出雲・小古祖から 88/ 7/ 2
【徳地散歩13】えんこう伝説から 88/ 7/31
【徳地散歩14】深谷十三仏2 88/ 8/ 7
【徳地散歩15】石風呂(岸見) 88/ 8/16
【徳地散歩16】姫塚(島地) 88/ 9/25
【徳地散歩17】石経様 88/10/ 2
【徳地散歩18】八坂 屋敷 88/10/10
【徳地散歩19】柚野 川上 88/10/30
【徳地散歩20】出雲 88/11/ 6
【徳地散歩21】柚野 祖父 88/11/13
【徳地散歩22】柚野 祖父(21)の続き  88/12/ 4
【徳地散歩23】柚野 柚の木  88/12/ 4
【徳地散歩24】出雲 庄方  88/12/18
【徳地散歩25】わらべ歌から  88/12/25
【徳地散歩26】柚野 中野  89/ 1/ 9
【徳地散歩27】徳地 柚野散策  89/ 1/15
【徳地散歩28】柚野猿岡  89/ 2/ 5
【徳地散歩29】出雲 庄方  89/ 2/12
【徳地散歩30】出雲 須路  89/ 2/26

 
【徳地散歩1】大原湖周辺・今は桜が 88/ 4/17
 大原湖は昭和31年に出来た佐波川ダム(防災・灌漑・工業用水確保、電力増強等
の多目的ダム)にともなって生じた人工湖だそうです。
 面積は1・16平方キロメ-トル、有効貯水量は2400万立法メ-トルで、まあ
かなり大きいほうに入るでしょうね。この大原湖の湖岸に約2000本の桜が植えて
あって、そろそろ見頃になってきていますよ。
 行かれる時は、カメラ(望遠レンズつきだとさらにグ・)、テレコを持っていって
下さいね。ついでに、つりの用意もしましょう。別になくてもいいですよ。
 桜を見ながら、車でダムの周辺をまわり適当な場所でつりもいいです。塩焼きにし
て食べるのもいいし、ただ釣って逃がしてやるのも楽しいものです。
 でも、一つ注意。道はわりとカ-ブが多いのです。歩く時も気をつけて下さい。
 釣りは今一つという向きは、愛鳥林というのがありますので、そちらに行ってバ・
ドウオッチングをしてもいいですね。ただし、朝は早いほうがいいみたい。
 子供づれなら、長者ケ原(これは、またいつか詳しく紹介するつもりです。)グリ
・ンスポ-ツ広場の冒険森に行ってみるのも楽しそうですね。
 (交通)バス利用・防府駅から防石バス(堀行き)に乗車。堀から佐波川ダム行き
     に乗車。佐波川ダムで降りるか、長者ケ原バス停で降りる。
     車利用 ・徳地インタ-でおりて、県道防府阿東線を北上する。
 付け足し、健脚の向きには、中国自然歩道徳地コ-スというのがあるそうです。
山は白石山が眺めは抜群といったところでしょうか。
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【徳地散歩2】長者ケ原 88/ 4/17
 火山活動により出来た総面積350ヘクタ-ルの台地。本体は死火山で、火山灰に
おおわれた台地にはいたるところに火山岩が露出している。台上南東にある雄つぼと
雌つぼ(たぶん火口だったのでしょうかね)は水をたたえ湖を形成している。
 この湖は、また天然記念物のサンショウウオが生息していることでも有名である。
 湖面に映える桜、ツツジの景観は絶景であり、飲料水・休憩所の設備も完備して、
キャンプ場として最適の場である。
 また南西に広がる栗園とともにワラビの産地としても有名である。
昭和64年には国立少年自然の家が開設される。
(サンショウウオについての補足)
 サンショウウオという呼び名はたいへんあいまいである。もともとはオオサンショ
ウオにつけられたもので、その皮膚の線からでる臭いが植物の山椒(サンショウ)に
似ていることに由来する。(一説には皮膚が山椒の木のはだに似ているからとも言う
が定かではない。)分類学上のサンショウウオはサンショウウオ科に属するもので、
イモリやサイレンのようなものまで含んでいる。ちなみにイモリ以外のサンショウウ
オをとりあげると日本では、15に及ぶ種と亜種がそれぞれ限られた環境に住んでお
りサンショウウオの宝庫と言われている。
 ウオという名前のとおり、この仲間の泳ぐ姿は魚に似ており、ぬるぬるとした肌ざ
わりはドジョウににている。成熟したサンショウウオは林の落ち葉の下や石の下で生
活し人目につかないが、産卵季には水中に帰ってゆく。この産卵は冬に行われること
が知られておりほぼ1月から2月に、2対になったバナナ状の卵塊を水草等に産みつ
ける。
 サンショウウオ類は現代より寒い時期に栄えた両生類と言われ、現在では環境の変
化に対応が難しく、また生息できる地理的条件が限られていることもあり、宅地開発
等で近年数が減少している。(日本メ-ルオ-ダ-社 動物の大世界百科より)
 分布から見て、オオサンショウウオかカスミサンショウウオでしょうね。見てみた
いものです。
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【徳地散歩3】サイクリング大会のお知らせ 88/ 4/27
 今日、サイクリング大会についてのパンフを入手しましたのでUPします。
山口BDには自転車に興味を持っていらっしゃる方もいるのではないかと思ったからで
す。僕自身は、行こうかなどうしようかなっていうところです。自転車は袋に入れてか
ら、もう4年たってしまっているので使用不可かもしれません。休日に掃除してみよう
かな。それで誰か行く人がいたらめ-る下さい。申し込みくらいは代行しますよ。
 ついでに一緒に行くという手もありますからね。
それでは、内容です。
 〔日時〕5月15日(日)・雨天時は5月22日に開催
 〔日程〕
 山村開発センタ・(中国高速徳地インタ-を降りて防府方面に向かって5分の場所)
   9:00集合,9:30出発
 花尾八幡宮・長寿園・雨田草堂・月輪寺薬師堂・旧高瀬小学校・高瀬峡
 高瀬峡出発 ・山村開発センタ-
  14:00   15:00
 〔募集要項〕自転車は個人持ちで
 〇方法 はがきか電話で住所・氏名・年令・性別をそえて申し込んでください。
 〇申し込み先・問い合わせ先
  徳地町山村開発センタ-内 徳地町教育委員会社会教育課
  TEL(08355)2・0217
 〇参加資格 小学校5年~一般
 〇申し込み期限 5月13日(金)午後4時
 〇携行品 米一合・水筒持参
 〇参加料 一人300円
 以上です。(注 現在行われているかどうかは不明です。2005 4)
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【徳地散歩4】その歴史をさぐる1 88/ 5/ 4
 弥生・縄文の頃については、佐波川近くの平地に遺跡が少ないことから、おそらくは洪水などで氾濫する佐波川近くの平地には住居を構えずに川にそった小高い岡に上に住み生活していたのではないかと考えられています。
 徳地町には現在までに遺跡として18のものが発見されています。以下がそのリストです。1・大藤遺跡 2・戸称遺跡 3・上野谷遺跡 4・上八遺跡 5・白石山遺跡    6・正慶院谷遺跡 7・大門遺跡 8・才谷古墳 9・北野遺跡
   以上が1000~2000年前のもの
  10・大谷浴遺跡 11・蟹ガ谷遺跡 2000年以上前
  12・庄方遺跡  13・二宮遺跡  14・鯖遺跡  15・安養遺跡
  16・元折遺跡  17・大町遺跡  18・下津屋遺跡
   以上が1000~2000年前のもの
 北の方から並べてみました。10・11では土器の破片,石器類が主なもの
  13・17では米作関係のもの 8は円墳で耳輪や鉄の矢じりが出ているということでした。なおこれは田の真ん中にあり、石組みが現れています。中国自動車道の工事にとなって発見されたもので、徳地インタ-から近いですね。
 次回は大和朝廷のころを取り上げてみたいと思います。よろしく。
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【徳地散歩5】その歴史2 大化の改新の頃 88/ 5/ 4
 大和朝廷が成立し、645年の大化の改新の頃、この地方は周防国佐波郡と呼ばれるようになりました。防府には役所としての国衛(こくが)がおかれ、行き来が活発になったようです。
 人々は、せまい平地を切り開いて水田としたり、山奥では焼き畑農業をしていました(三谷に残る「ひじり岩」は焼き畑をさかんに行った後と言われている。)
 いずれにしても、この時代の農民の暮らしが楽であったとはいいがたい。
 また、この時期には出雲神社(二宮)〔堀、二宮バス停より徒歩3分 徳地で一番古神社で周防二宮として尊ばれている。神社の横にある大杉は根廻り12・5m、幹のまりが8・3mもある老木で、古くから御神木として石の玉垣でかこみ保護されている〕や三坂神社(岸見)といった、格式の高い神社や寺が建立されたようです。
 次回は徳地の隆盛を招いた、重源と言う人についてUPします。
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【徳地散歩6】徳地隆盛の頃 俊乗房重源 88/ 5/ 4
 徳地の発展に寄与した人物の第一として俊乗房重源があげられます。彼は1180年の平家と源氏の争いにより焼失した東大寺再建のため「大勧進職」に命ぜられて、1186年にこの周防の国に下向してきました。
 彼の仕事は、用材確保が第一でしたが、同時に東大寺造営料国となった周防国全体の国務をも司ったのでした。
 この時代には、この徳地は得地として文献に見えますが、彼はその得地保の深山にわけいり、活動の拠点として安養寺(現 法光寺)等を建立し、念仏を広めながら勧進の活動をしていったものと思われます。木材の切り出しですが、次の様にしたようです。
 柚野,八坂,串の山奥から巨木を取り出すために林道をつくり、さらに佐波川に関を118ケ所作って川の水をため、その横につくった関水を通して、巨木を下流まで流していったようです。また、人々の協力を集めるために、薬師堂を再建したり、人夫の疲れをいやすために石風呂も作ったということです。
 俊乗房重源が木材の切り出しを始めた頃から、徳地は佐波川ぞいに急速に開けていったのです。平家と源氏の争いが、徳地の発展につながったというのは面白いですね。
 苦心の末に確保された用材により東大寺が再建され、1201年東大寺の総供養が行われ、再建事業は終わったのでした。彼の周防国管理は21年におよんだそうです。
 補遺 法光寺 阿称陀堂は文治2年に俊乗房重源が創建した安養寺の跡で、阿称陀如        来像の他、観音、勢至菩薩、毘抄門天、不動明王及び、俊乗房重源の
        自作の上人像など800年前の仏像を安置している。
        (防石バス 安養地線終点下車 2分)
 ○次回は大内氏の時代付近から、拾ってみます。
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【徳地散歩7】大内氏の頃 88/ 5/ 8
 12世紀の終わり頃から、徳地は貴族の九条家や東大寺、東福寺の領地であったが武士の台頭とともに、当時この地において勢力を伸ばした大内氏や陶氏に支配されるようになった。特に陶氏は、代官を置き徳地を強力に支配した。
 陶氏の支配下に入った頃より、各集落を結ぶ道路の整備もすすみ、田畑の整地もそれに伴って行われていった。現在、徳地和紙として有名な和紙作りもこの頃から始まったと言われている。
 また、従来の得地の代わりに徳地の地名が用いられるようにもなってきたことが、1384年作の福生寺の鰐口(わにぐち・ドラのようなもので合図につかう?)の名に記されていることより、知られている。
 なお陶氏の墓は、妙寿院に見られる。
 室町時代の半ばに、現在ある深谷の十三仏が作られている。この十三仏の信仰は、浄土信仰に基づいて死者の追善の法事を修める時、その年忌に配された十三仏を信仰して極楽往生を願うを願うものであった。
 室町の後期には大内氏の支配が及ぶこととなり、大名大内義興が天界寺に徳地紙を寄進したことが記録に残されていることから、この頃の和紙の製造が盛んだったことが伺われる。
 ○次回は毛利氏の頃を取り上げてみます。
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【徳地散歩8】長者ケ原名前の由来 88/ 5/13
 むかしむかし、長者ケ原にたいそう金持ちで、とても広い屋敷をもつ長者が住んでいました。
 その長者は、ばく大な金銀財宝を持っていたにもかかわらず、たいそう欲が深く、その上、いつも、自分は大金持ちの長者だということを鼻にかけていばっていたということです。
 長者は、いつも自分の財宝を奪われてはたいへんと思っていましたが、ある日決心して誰にも見つからないように、夜中にこっそりと蔵の中の宝物を全部運びだし、屋敷の裏庭の白いなんてんの木の下に埋めました。埋め終わった長者が、ほっと一安心したことは、言うまでもありません。
 それから、幾年が過ぎたある日、突然長者ケ原の山が噴火しました。付近の村人達は大あわてで避難してしまいましたが、欲深い長者は、埋めた宝物が気になってそこから離れようとしませんでした。山がうなり、地がほえ、屋敷は崩れんばかりにゆれましたが、長者は必死で柱にしがみついていました。山はもくもくと煙をはいていましたが、ついに大爆発をしました。そして、長者のいた屋敷は無残にも灰の中に埋まってしまっのです。宝は?そうです。今だに埋まったままになっているということです。
 「おんつぼ」「めんつぼ」という2つのつつみ(池)は、その時の噴火で出来たものですが、今でもその辺りの土を掘り起こしたり、花をついだりすると、病気になるなど何かの災難がふりかかってくるそうです。それは、欲の深かった長者の執念のためと言われています。
 現在の船路の「屋敷」は、その長者の屋敷があった所で、「御馬」は長者の乗っていた馬の屋敷のあった所。「間方」はもともとは「馬方」で、長者の馬の世話をしていた馬子(まご)達の長屋があったところだそうです。〔徳地昔ばなしより〕
 ○そう言えば長者伝説は秋吉台にもあったですね。原作をちょいといじくりました。
  しばらく、徳地に伝わる話をUPしてみます。
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【徳地散歩9】串の鯖(地名)の由来 88/ 5/22
 徳地昔話より・・・・・・・・<チョン,チョンチョンチョチョチョ・ン>
 今の鯖河内は、古くからみごとな樹木が、おい茂り、800年もの昔、奈良の東大寺再建に使われた材木を切り出したところです。
 俊乗房重源上人は東大寺再建用建材採取のため武田番匠、その他多くの職人を召しつれ西国ののこの徳地まで入って来られたのです。
 上人は、所々に小屋を立てて、そこで寝起きし、毎日材木の採取にあたっておられました。この地は、深山渓谷に富んでいる所ですから、わらび、ぜんまい・やまいもなどの山の幸に恵まれていました。
 ところが、ある日のことです。職人や人夫たちが、「わたしたちは、故郷を出てからこの深山に入って以来、一度も魚を食べていません。元気に働くためにも、ぜひ魚を食べたいものです。」と上人に申し上げたところ、上人は笑顔でうなずかれ、「どうしたものかなあ。」としばらく腕を組んで考えこんでいらっしゃいました。そして、そばに落ちていた木のかけらに「鯖」という字を書きこまれ、長い間祈祷された後に、池の中に投げ込まれたのです。
 職人や人夫達は何をされたのか、わけがわからず、ポカンとして池の中を見ていますと、どうしたことでしょう。「鯖」と書かれた木のかけらは鯖の姿と化して泳ぎだしたではありませんか。職人達や人夫たちの驚きようといったら、それはそれは口では言い表すことができません。
 びっくりした職人や人夫達はあやしみながらも、これをとって食べてみますと、本当に鯖の味がするのです。それから後は、海の幸の魚も食べることが出来るようになり東大寺再建用材木採取もますます盛んになっていったのです。
 これ以来、串のこの地を「鯖」「鯖河内」と呼ぶようになったということです。
 ●俊乗房重源についての話が多いんです。もうひとつはえんこう(カッパ)。SF的
  な話もあり、面白く読んでいます。今回もお話の紹介でした。
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【徳地散歩10】八坂・三谷 88/ 6/ 5
 やっとひと仕事片付いたので、また本を読んでいます。それでは・・・・・・・
<俊乗房重源の伝説から>妙寿院ー日戻しの扇子の由来
 昔、俊乗房重源上人が、東大寺再建のための木材を調達するために、徳地を訪れていた時の話です。
 三谷の山で、重源上人に雇われたきこり達は、朝早くから汗を流し、木を切り出す作業に精をだしていました。ふと気がつくと、お日様は、もう頭の上に来ていました。そこで、きこり達は昼飯にすることにしました。
 木陰の涼しい場所に腰をおろし、汗を拭きながら、楽しく食事をしていますと、思わ時間を過ごしてしまいました。気がついた時には太陽はもう西に傾きはじめていたのです。 きこり達は、こうしてはいられないとすぐさま作業にとりかかりましたが、太陽が傾いた分だけ仕事が遅れ、太陽が沈むころになってもその日の仕事を終えることが出来ませんでした。きこり達は困ってしまいました。その仕事は必ずその日のうちに終わるようにと言われていたのです。
 そこへ、仕事の様子を見に重源上人がやってきました。上人はきこり達の困った顔を見回して、「なぜそんな顔をしているのか。」と聞きました。きこり達は言おうか言うまいかと、しばらくこそこそと話をしていましたが、そのうちにきこりの長(おさ)が少しうつむきかげんに前に進み出て、申しわけなさそうに、今日一日のことを包み隠さず重源上人に話しました。
 「そうか、そうか。」とうなずいた重源上人は、にっこりと笑い、衣のたもとから、一つの扇子を取り出しました。そして、それを広げ、空を西から東の方へゆっくりと持
ち上げるようにあおぎました。するとどうでしょう。西の山に沈みかけていた太陽が少し戻ったのです。もう一度あおぐとまた少し太陽は東の方に戻ったのです。
 きこり達はあっけにとられて、口を大きく開けたまま、空をぽかんと見上げているだけでした。
 みんな、はっと我にかえり、重源上人は神様ではないかとざわめき始めました。しかし、せっかく重源上人が自分達のために日を戻して下さったのだからと重源上人に感謝しながら、また仕事にかかりました。
 みんなが、一生懸命に作業したので、再び日が沈むまでにすっかり仕事を終えることができました。
 この時の俊乗房重源上人の扇子は、長い間三谷奥谷の奥野家に所蔵されていたということですが、今から40年ほど前、野々井の原孫平さんの家のわらぶきのふき替え工事の時、屋根裏から発見され、上八坂の妙寿院に納められました。
 扇には、鶴亀宝珠などが描かれており、骨は黒塗りの檜製。長い年月のためかなり痛んでいますが、妙寿院の寺宝として今も大切に保存されています。
 ●この話は扇子に付属する、証拠の文からとられた様子ですが、色々と空想出来る部
  分〔一種の催眠か?、または日食のことからか、日食の方がなんとなくあっていそ
  うです。きこりにしても、今でいうプロですから、今日の仕事についてそう見誤る
  ことは考えられません。または、一歩譲って法術・・・〕もあって興味深いもので
  した。いずれにしても重源上人が、徳地の人々の心をしっかりと掴んでいたことが
  よく伺われるものではないでしょうか。それじゃまたね。
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【徳地散歩11】滑(なめら)の由来 88/ 6/26
★内容
 また、少し読みました。徳地昔話からです。
 平安時代の初め(今から約千二百年前)頃、四国讃岐(今の香川県)の生まれである
弘法大師が諸国へ教えを説いて歩かれたことは名高く、いろいろな地方に伝説として残
っています。
 ある年の秋、弘法大師は、柚野地区のすがきというところから、山越えで八坂に出ら
れました。
 すがきの方から険しい山道を歩かれた大師はとある谷川にたどりつかれました。
 あたりは、紅葉した木々がせせらぎの冷たい流れに影を落とし、木陰から漏れる日の
光りが優しく体を包んでくれました。この美しさにほっとして腰を降ろし、回りを眺め
ながら、一休みされた弘法大師は、ふと、足元の流れの中に、赤い色をしたとても滑ら
かな石を見つけられました。
 「おお、なんともよい滑らかさじゃ。これからはこのあたりを滑(なめら)と呼ぶと
よかろう。」と言われました。
 大師は腰をあげ足を進められました。しばらく行くと入り口も出口もわかりにくいような所に行きつきました。「ここは、身を隠すのに都合のよい所じゃ。出口も入り口もないような所じゃから、ここをくちなしと呼ぼう。」と言われました。
 また歩いていかれました。
 すると、秋の午後の日差しを受けて、柿の実が三つ、美しい色に照り映えていまし
た。
 「ああ見事じゃ。きれいな柿じゃ。それも三つなっている。ここはみつなりじゃ。」
と名付けられました。
 大師は疲れた足をさらに進められましたが、つるべ落としと言われる秋の日は短く、
山は特に早く日も落ちて足元はおぼつかなくなりました。
 すっかり日が暮れてしまった時
 「ここを日暮れと呼ぼう。」と言われました。
 ほどなく、広い広い野原にさしかかりました。
 その時、
 「これより、広い山の上はあるまい。ここを山の上と呼ぼう。」と言われました。
 その広い野原を抜けてまもなく、山のかなたから、明るいお月様が登ってきました。
ちょうど満月の宵だったのでしょうか。 そのお月様は手を伸ばせば、届きそうなほど
大きな大きなお月さまでした。
 「まことに見事。このように大きな月が昇るのはここをおいて他にはなかろう。ここ
を大月と名づけよう。」と言われました。
 こうして大師が名づけられた地名は今もなお、そのまま残っています。
 *************************************************************************
★初めて滑(なめら)という地名を聞いた時不思議な気がしました。今は鉱山跡があっ
見学が出来るそうです。また、古代の原生林もそのまま残っているとか聞きました。
 弘法大師という人も、変わったところがあり私は好きです。
●●●僕のセンターから下ること20分ぐらいで滑に行く道があるのです。●●●●
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【徳地散歩12】出雲・小古祖から 88/ 7/ 2
・・夫婦岩様(みょうといわさま)の由来。・・・・・・・
 今からおよそ八百年前、東大寺再建の用材を引谷や柚野のあたりから伐り出し、川を
利用して木材運びが行われていた頃の話です。
 今の小古祖付近はその頃沼地になっていて、上流から流れてくる木をいったんそこに運びこみ、あらためて下流に流すという貯木場として使われていました。
 そこに、働く仲の良い老夫婦がいました。
 その夫婦は、沼のほとりに小さな小屋を立てて住み込み、上流から流れてきた木を並べたり、下流に流す木をまとめて調べたりする生活を送っていました。
 それは仲のいい夫婦で、その光景を見た人達の心はなぜか暖かいものにつつまれるの
でした。
 ある年の夏、とても大きな台風がやってきました。吹きすさぶ風と土砂ぶりの雨は、
佐波川の水位をどんどん上げていきました。
 魔物がたけりくるい、黒雲となって空をかけめぐるようなといったらわかるでしょう
か。貯木場に立つ波も荒く、岸辺に打ち上げる水しぶきは、すべてをのみこまんばかり
になっておりました。
 老夫婦は必死になりました。
 大切な木をなんとしても守らなければなりません。二人は強い風に吹き飛ばされそう
になりながら、命がけで大きな檜や杉の木に太い綱をかけ、流れるのをくいとめようと
しました。
 しかし、大きな丸太がぶつかりあう力は、二人の想像をこえたものでした。せっかく
かけた太い綱も切れてしまいました。
 「アッ」という間もなく、二人は丸太とともに流されました。助けを求める声もむな
しく、姿は濁流にのまれてしまいました。
 翌朝、空はカラリと晴れあがり、昨日の嵐がうそのように美しい青空が広がっていま
した。でも、おしどり夫婦の姿を二度と目にすることは出来ませんでした...。
 木材運びが終わると間もなく、その沼は埋め立てられました。そして、下小古祖の道
ぞいに夫婦の死を哀れにおもい、霊をまつるために大きな岩が二つ並べて立てられまし
た。
 だれが言うともなく、この岩を「夫婦岩様」と呼ぶようになりました。
 この岩は、佐波川沿いから1キロばかりはずれた所に立てられ、そこから佐波川を望
むことは出来ません。これは、「夫婦岩様」再び洪水にあわせることのないようにとい
う気持ちがこめられているそうです。
 そんな「夫婦岩様」ですが、今では、夜尿症を治す神様として信仰され、時々御参り
にくる人があります。
 お供え物として、豆腐や油あげをあげるのですが、不思議なことに、野菜や果物を供
える時には、必ず二に関係するような物をあげるのです。
 大根であれば、先が二またになっているとか、柿でも、へたは一つでも実が二つにな
っているものとか、とにかく一つが二つになっているものをお供えします。
 理由は、はっきりしませんが、ただ考えられることと言えば、死んだ後も離れ離れに
ならない仲の良い夫婦をしのんでのことかも知れません。
 ●●**************************************************************●●
 はい、徳地の材木切り出しには、たぶん多くの犠牲が伴っていると思われますが、そ
の一つでしょうか。必死で材木を、とりまとめようとしているおじいさんとおばあさん
の姿が目に浮かぶようです。それから、二人はどんな過去を持っていたのかもいろいろ
と考えてしまった話でした。
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【徳地散歩13】えんこう伝説から 88/ 7/31
*えんこうと杉の木*柚野 柚木 (徳地昔話)
 昔、佐波川にも「えんこう」(かっぱ)がいて、泳ぎに行くと足をひっぱるといって
子供達はとても恐れていました。
 ある夏の夕暮れの頃です。一人の百姓が馬を引いて「僧取り淵」にやってきました。
汗とほこりにまみれた馬を、冷たい川の水につけ、百姓はやさしく馬の背中を流してお
りました。馬も気持ちよさそうに目を細めて、静かにしておりました。
 突然、その静けさをやぶって、一匹のえんこうが僧取り淵の水面に姿をあらわすやい
なや馬のしっぽにつかまり、ながく伸びる手を馬のおしりからつっこんで、生き肝をと
ろうとしたのです。
 馬は驚いて、前足を高くあげていななくと、えんこうをしっぽにぶらさげたまま、た
いへんな勢いで走り出し、お寺の境内にかけこみました。
 騒ぎに驚いて、お坊さんが庭に出てみると「おんおん」と泣きながら、必死にえんこ
が、暴れている馬のしっぽにしがみついているではありませんか。
 ほどなく、馬も疲れたと見え、おとなしくなりました。
 そこで、お坊さんは、えんこうに向かって重々しく言いました。
「おまえは人間を困らすような悪いことばかりしている。重いおしおきをせんにゃなる
まいのぉ」
 すると、泣きやんでいたえんこうは、また泣きべそをかいていやいやをしました。
しばらく思案したお坊さまは、なにごとか思いついて、こう言いました。
「今日は許してやろう。そのかわり、川辺に杉を植えること。また、その杉がある間は
決して悪いことをしてはならない。もしも今度、人間を困らせるようなことがあったら
ただではすまさんぞ。」
 えんこうは、首を何度も何度も下げて、うれしそうに川に帰っていきました。
次の日、朝早くからえんこうは、いっしょうけんめい川辺に杉を植えました。
 それからというものの、えんこうは人間の前に姿を現すこともなくなり、だんだんと
忘れられていきました。
 しかし、えんこうが植えた杉の木はどんどん大きくなり、洪水の時は護岸の役目をし
て村を守ってくれたということです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
●たぶん、昔に洪水から村を守るために杉が植えられたのでしょうが、いつしか誰が植
 えたのか忘れられて、それがえんこう伝説と結び付いたのでしょう。それか、杉の若
 木が洪水で流されてきてそこで根づいたのかもしれません。と思います。
  なお文は、くどい表現があったので少し変えてあります。それから、わりと「えん
 こう」に関する話が多いですが、渓流の水で冷たいのと、淵は特に下部が冷えていて
 いるために心臓マヒとかおこしやすい状況にあるので水難事故も多かったのでしょう
 死ぬと肛門が筋肉が弛緩し、肛門も開くので、これを不思議としえんこうの存在が考
 えられたのだと思います。でも、あの皿のある頭、くちばしと甲羅、日本で各地に共
 通した姿は何と考えたら良いのでしょうね。みなさんはどう思いますか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 今日はここまでです。では、またね。
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【徳地散歩14】深谷十三仏2 88/ 8/ 7
 自分の未来を明るくできる?
 堀・深谷の山あいにある十三仏に行ってきました。田園風景の広がる中に、案内の杭
があり、農家の後ろの小高い山の上、堂の中に目指す仏達が静かに座っていました。
 この十三仏の信仰は、脇にある説明によれば、室町時代、戦乱にあけくれる日々を送
る民衆の中より起こったそうです。
 その概要は、人間が死ぬと、定められた日に各仏様の前に呼び出され、生前の行いを
吟味され、悪事が露顕すれば、地獄の責苦を与えられるそうです。
 そこで、生きている内に、各仏さんをお祭りし、死んで行った時には、加護をしても
らおうということのようです。そして、スムーズに極楽浄土に行かせていただくことを
願いました。拝む仏様も決まっていて、初七日は(不動)・27日は(釈迦)・37日
は文珠・47日は普賢・57日は地蔵・67日は弥勒・77日は薬師・100ケ日は観
音・1年は勢至・3年は阿称陀・7年・・・・・・33年虚空蔵計の計13
 堂に向かって右に回ると、縁起を書いた石碑がありました。カコウ岩に彫ってありま
したが、所々しか読めなくて(知識不足のためです。)残念でした。
 中には十四あるということでしたが、二列目の右はしは、ただの石にしか見えません
でした。「13ありますね。」「えっ14ですよ。」「あれ、確かに」「いや、13」
「ありゃー、仏さんじゃないよ。」「あっほんとうです。」でも本には14って書いて
あったんだけどなぁ。ぶつぶつ(7回繰り返してみる。)。
 十三仏は各地にありますが、他は梵字を書いた一枚岩だそうです。このような形態を
とっているのはここだけだということでした。(珍しいんですね。)
 さてと・・・・・・・
この信仰について、少し考察してみましょう。
 〔疑問点〕後に残った者が、祭り事をしていくのが一般的であった筈なのに、この時
      代になぜこのような思想が生まれたのか。
 戦乱ー末法思想ー阿称陀信仰・・・・・・・十三仏信仰。阿称陀信仰よりも十三仏信
 仰の方が積極的というか他人の力をあてにするより自分の力により、死後の状況を打
 開していこうとという意志が伺える。
  以上から、その当時の人が自分の子孫をあてにしなかったというように考えるのは
 短絡的な見方でしょうか。
  あてに出来ない理由として考えられること。
  1・戦争で、自分の子孫が、確実に生きられるという見通しがたたない。
  2・この世の終わりが来て、裁かれることになる(おっと、ノストラダムス調)
 でも、なんで、ここ徳地にぽつんとあるのか疑問はつきませんでした。
 ともあれ、色々考えながら、帰路につきました。畑のツクネイモがみごとでしたよ。
 (ツクネイモって、葉がヤマイモの葉を短く太くしたような感じでした。最初ヤマイ
  モと思ってしまったぐらい。)
では、また。次回は岩風呂?石だったっけれについて書きます。
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【徳地散歩15】石風呂(岸見) 88/ 8/16
 のどかな田園風景の中、山際の一見農家と見える建物の中に、それがありました。
この石風呂は、俊乗房重源の工夫になるものとされており、木材切り出しが重労働であ
ったことが、今さらながらに伺えるものでした。現在では、私の知るかぎりでは、ここ
と野谷とで2箇所しかありませんが、当時は他にもあったそうです。
 野谷は、岩を穿った洞窟であり、岸見のは、外見から想像するに岩を積みあげた構造
になっていました。
 行くと、近所のお婆さん達が出迎えてくださいました。2時間も前から準備して下さ
ったようで、次のように説明されました。
 1・穴の中で、火を焚いて周壁を熱する。
 2・体に厚く布をまとい、中のおきをかきあつめて出す。
 3・水をしませた、わらたばをしきつめる。
 4・濡れむしろを、その上から敷く。
 はい、それで中に入ってみました。少し、煙の匂いがする真っ暗の洞窟で、6人が十
分座れるぐらいの広さでした。光は入り口から入るだけでしたが、まあまあ目が慣れ
ると見えてきて、天井の文字もかすかに読める程度でした。
 汗がだらだらかと思いましたが、中は乾燥しており、骨身に熱がじーんとしみて、結
構なものでした。肩が、当日凝っていたのですが、出てきてからすっとしていましたの
が不思議でした。
 入浴?料は500円だそうです。(ちょっと高いかな・・・でも準備から考えてみれ
ば、安いかも、それにこれは、ちょっとした歴史体験だから・・・)
 あらかじめ、連絡していけば、団体で受けて下さるそうです。
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【徳地散歩16】姫塚(島地) 88/ 9/25
 昔、上村はある殿様が治めていました。お城は米光にありました。平和な日々が続い
ていました。
 ところが、ある日、お姫様が病気になって倒れてしまいました。その病気は伝染病で
当時は、薬もなく、どうしょうもありませんでした。
 殿様は病気が広がるのを恐れ、お姫様を殺すように命令をだしました。
 お姫様は、自分はまだ生きられるという思いで逃げました。一生懸命逃げました。
逃れる途中、水を飲み、また逃げていきました。この時飲まれた水を「いのちの水」と
言っています。
 しかし、ついに姫は迫の山で追手に捕まり刀で切られてしまいました。その血のつい
た刀を「つぼかわ」で洗ったようです。
 お姫様が殺されたというところには塚があって、いくつもの塚が置いてあったそうで
すが、今ではやぶの中に一つだけ見えるそうです。
 お姫様が脱いぞうりの置いてあったところには、「ぞうりづか」があるそうです。
●はい、伝染病が何であったかは、不明ですが僕は、どちらかというと落城の際に逃げ
 ていった方達が、一緒に切られた場所ではなかったかと思います。まわりにいくつか
 の塚ということで、一緒に従った人が数人いたのでしょう。それか、伝染病にかこつ
 けて、家を追われたか。
  塚を作ったというのは、やはりそれが正当なことではなく、切った者にとっても
 なにか心を痛めることがあったように思います。
  一歩譲って、伝染病となれば、姫だけではすまなかったと思いますが、どうも山口
 で、そんな歴史に残るようなものはなかったような??。MATUDA先生どう思わ
 れますか。てんねんとうっかな。ではでは。
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【徳地散歩17】石経様 88/10/ 2
 (八坂 木地屋)
 昔々、三谷の村の人々には、恐ろしいものが2つありました。
 その1つは疫病です。
ひとたび疫病がはやると、次々と人が倒れ、病の床につきました。しかし、三谷の村に
は一人のお医者様もおらず、人々はどうすることも出来ませんでした。
 二つめは、災害です。三谷川に沿った険しい山肌を開墾してできた三谷の村は大雨の
たびに大きな被害を受けていました。急斜面に開かれた田畑を大雨は容赦なく突き崩し
ていったのです。
 人々は悩み、何とかしていつも安心して平和な日々が送れるようになる良い方法はな
いものかと考えました。そして、みんながいろいろな意見をだしましたが、結局仏様に
よる以外に方法はないという結論に達しました。
 そこで、羽高(はだか)の修練坊で修行していたお坊様に、禅宗では一番ありがたい
法華経を小さな石に一字一字彫ってもらい、その石を土の中に埋め、その上に大きな石
を立てて拝みました。
 人々は、その石を「石経様」と呼び、大切に祭りました。
 人々の願いが仏様に通じたのでしょうか。それからというもの、三谷の村から疫病も
災害も次第になくなっていきました。
 しかし、ある年、今だかってなかった疫病が発生し、三谷じゅうの人々を苦しめまし
た。みてもらう医者もおらず、人々は村の占い師に相談しました。
 「これは、石経様のたたりじゃ。あれほどありがたがっていた石経様を、しだいに粗
末にするようになったので、そのたたりがあらわれたのじゃ。」
 占い師の言葉に聞き入っていた人々は愕然としました。平和な年が何年も何年も続く
うちに、村人達の頭から、疫病や災害の恐ろしさ、また「石経様」のありがたさという
意識もだんだんと薄らいできていました。盛大に行われていた「石経様」のお祭りも年
々下火になり、その頃はまったく行われないようになっていたのです。
 村人達は、大急ぎで準備をし、以前にも増して盛大に祭りをとり行い、一心に祈願し
ました。
 すると、あれほど猛威を奮っていた疫病もぴたりと収まり、村は以前の平和を取り戻
しました。
 そして、人々は改めて「石経様」の功徳に感謝し、厚く信仰したということです。
 「石経」は、現在でも、木地屋にある神社の境内や奥谷など数か所に残っています。
●●●●●●
 この、石経については昭和62年に、新聞でも話題になったものです。石に経を彫る
ことが、始まったのはいつからでしょうか。民間信仰の一つに丸い石に霊がやどるとい
うのがありましたから、それに仏教信仰があわさったのでしょうか。
 次に、この文では、祭りの意義,起源となるものが伺える部分がありますね。祭りと
はたたりを防ぐことであり、連帯意識を増加させるものでしょうか。いわゆるキリスト
を祭るの祭るとはだいぶと意味が違うようです。ところで、「まつり」の語源は何でし
ょうか?どなたか御存じですか。
 さて次です。占い師が登場しますが、これも面白い所です。村に専業の占い師がいた
ということになりますから。徳地の民話で占い師が登場するのは、この八坂の民話のみ
のようです。なぜ他には見られないのでしょう。
 と見ていくと実に面白い話であると思います。みなさんはいかがですか。
では、今回はここまで。
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【徳地散歩18】八坂 屋敷 88/10/10
 昔々、八坂の上河内と奥河内が戦いをしていた頃のことです。
 ある日のことお屋敷に住む三人の娘が田植えをしていると、侍が通りかかりました。
娘達は一心に田植えをしていたために、侍にまったく気がつきませんでした。そのため
田の水でもかかってしまったのでしょう。侍は自分に対して無礼をしたというのでひど
く立腹(りっぷく)しました。三人の娘達は、非礼を詫び、決して故意にしたのではな
いのでどうかお許し下さいと必死になって懇願しましたが、ついに三人ともその場で首
を斬り落とされてしまいました。
 三人の早乙女を哀れに思った村人達は、その場所に小さな墓をつくりお弔いをしまし
た。
 しかし、その墓は段々になった田と田の水の継ぎ目の辺りにあったため、田植えの時
期になると、水につかるようになっていました。
 その後、お屋敷に住んでいる人に度々災難がふりかかるようなことが起きました。
 人々は、早乙女の墓が水につかるのをそのままにしてほおっておいたので、早乙女の
霊がついたのに違いないと言い始め、そこで、お坊さんに墓の供養をしてもらうことに
しました。
 そうしたところ、早乙女達の霊が出てきて、
 「墓が水につかるのは、いっこうにかまいません。私達三人は、この場所で首を切ら
  れたのですから、ここを動きたくありません。どうか、墓を移さないで下さい。」
と言ったそうです。
 そういう訳で、三人の早乙女の石ころのような墓は、今まで誰も手をつけず、何百年
たった今でも、田植えの時期になると水につかっているということです。
●墓は自然石で、いちおう立っているから墓かなという程度にしか見えません。
 この話で疑問の箇所は、何で斬られたのかわからないということ、三人だけが田植え
 をしているということはないですから、多分騒動が起きて皆が気がついたころには、
 必死で懇願している娘達の声が聞こえ、瞬時にして切られていたということでしょう
 か。侍が訳を話して去ったわけでもないということから、おそらくは、戦の中でも明
 日のために農作業をしなくてはならなかった場面で起きたことだったのでしょう。
  それと、この話には田の神信仰と、実際に起きた事件が何年もの間に一緒になって
 しまったようなものを感じてしまうのですが、いかがでしょうか。
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【徳地散歩19】柚野 川上 88/10/30
******* 徳地の昔ばなしより************
 柚野の川上という所に、木彫りのお地蔵様があります。顔には鼻だけしかなく、目や
口がどこにあるのか、今ではわからないくらいです。
 そして、そのお地蔵様は、首にすだれのようなものをつけていらっしゃいます。
 そのすだれというのは、柳の枝のようなものを、一本ずつ丁寧に編んで作ってありま
す。
 実は、このお地蔵様には、次のようないわれがあるのです。
 昔々、川上に大丈院という、その頃にしては、とても立派なお寺がありました。そし
て、そのお寺には『みろく様』と呼ばれる、木彫りの地蔵様が祭られていました。その
みろく様は、あるりっぱなお坊様から、「この地に住む人々の役に立つように。」と力
を与えられ、歯の痛みを止める仏様として、川上の人々から、たいそう大切にされてい
ました。
 人々は、歯が痛くなると、柳の枝を、箸の長さくらいに切り、それを自分の年の数だ
けすだれのようにつないで、みろく様の首にかけ「歯の痛みが止まりますように。」と
お祈りをするのです。すると、どんなにひどい歯の痛みも、不思議なくらいピタリとお
さまるのでした。
 ある日のこと、大丈院が火事になり、お寺の建物は勿論、中の仏像やいろいろな道具
などもすっかり焼けてしまいました。村人達は「力のあるありがたい地蔵様を失ってし
もうた。おしいことをしたものじゃ。」とたいそうなげき悲しみました。
 ところが、焼けた大丈院の跡から、なんと、すだれを大事そうに抱えこんだ、あのみ
ろく様が見つかったのです。しかも、顔や体には、焦げ目一つついていません。あんな
にひどい火事で、お寺も中の物もすっかり丸焼けになったというのに、もとのままの姿
のみろく様を見て、みんな感動し、「なんと不思議な力を持っておられるお地蔵様じゃ
ろう。ありがたいことじゃ。」そう言って拝みました。
 このありがたいみろく様のうわさは、遠くの村々にもしだいに広がり、それからとい
うものは、歯の痛みを止めてもらうために、たくさんの人が拝みに来るようになったと
いうことです。
 今でも、そのみろく様は、川上の道ばたに祭ってあります。しかし、お参りする人を
見かけることはほとんどありません。ただ、近くのお年寄りが立てられたのでしょうか
季節の草花が粗末な花立てにお供えしてあるのを見かけます。
 ●はい、今回はここまで、柳の木は昔は歯ブラシにしていましたから、たぶんそのせ
  いでしょうか。木彫りと言っても、素朴なお地蔵様。秋の野辺に相応しいものでし
  ょう。それから大丈院の件ですが、徳地は本当に仏教とかに関係が深いなあなどと
  思いました。ひょっとして、掘れば遺跡が出てくるのではないでしょうか。
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【徳地散歩20】出雲 88/11/ 6
 ***徳地昔ばなしより****
 むかし、むかし、新田と奥畑の間の山に、はるか遠くの方からでも見える大きな松の
木がありました。
 ある時、その松の木を切り倒して用材として使うことになりました。きこりは、なた
をふりあげて大きな幹の根本をめがけて伐りつけました。でも、なにせ大きな松の木の
こと、仕事が半分もすまないうちに日が落ちてしまい、きこりは仕事をやめて山を降り
ていきました。
 あくる朝来てみると、確かに昨日伐りとっていたはずの木くずが元どおりに全部くっ
ついていました。きこりは狐につままれたような不思議な気持ちになりましたが、昨日
と同じように木を伐りはじめました。しかし、またまた伐り終わらないうちに夕方にな
り、きこりは家に帰っていきました。
 このような出来事は次の日も、また次の日も続きました。
 「この不思議はいったいなんじゃ。これだけ腕のあるきこりがそろいながら仕事が進
まんとは、狐のしわざか、狸のしわざか、わしらの仕事のじゃまだてをするやつは。」
 きこりは評定しました。そして夜の間に何が起こるのか確かめなければならないとい
うことになり、見張りをすることにしました。
 夜も更けて、真っ黒な山はしんと静まりかえっていました。きこりがついうとうとし
始めた真夜中、松の木のまわりが急に明るくなり、どこからともなく白い衣を着たお坊
さんが四、五人現れて、松の木を取り囲みました。
 そして、きこりが昼間一生懸命伐った木くずを、一枚ずつ取り上げて、「まずは、こ
れ、次はこれ、それからこれ。」と歌でも口ずさむような口調に合わせて、伐った順序
ですっかり元どおりにしてしまいました。
 「これで、おしまい。」と最後の一枚をつけ終わると、かき消すようにお坊さんの姿
はなくなりました。
 夢の中の出来事と見まちがうばかりの光景に、ぼんやりと見いっていたきこりが、は
っと我にかえると、もう山の端が白んで夜が明けかけていました。
 二、三日後、きこりは大勢で山に繰り出し、この巨木に取りかかりました。
 高さ数千メートルにもおよぶ巨木が、大勢の人々の前を西大津の方角にドッシーンと
倒れましたが、畳六枚もある切り株からは、たくさんの血が流れでました。松の木は川
を下って防府で船に作られました。そして、いよいよ進水の時「周防佐波の徳地に帰り
たい。」と泣いたそうです。それ以来、「根啼き松」と呼び、今日まで、語り伝えられ
てきました。
 六十年前頃には、根啼き松のあとにまた、大きな松が生えて、防府からでも見え、徳
地の方に帰る人はこれを目印にしたということです。その後も、二、三本の大きな松が
生えましたが、今ではただ石が残るだけになりました。
●●さて、今回は根啼き松のお話でした。根啼き山というのが現在もあるそうです。畳
で六枚ですから結構大きな松だったようですね。昔のことですから、伐り倒すのにもか
なりの時間がかかったことでしょうし、また、昔から大きな木には霊が宿るという信仰
もあって、このような話が生まれたと思われます。船にして、水がしみこむ音が泣いて
いるように聞こえたというのは、ありそうなことです。このことも、話の出来るきっか
けとなったと思われます。次に歌?ですが昔ばなしになぜか、不思議な現象にともなっ
て歌が歌われるものがあります。これが、ありえない事にさらに不思議さをかもしだし
ていますね。面白い発想というべきでしょうか。夜の闇の中に白い衣が映えて実に幻想
的でもありますね。真夜中に根啼き山にたたずんで、古代の幻想を追うのも一興でしょ
うか。では、また。
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【徳地散歩21】柚野 祖父 88/11/13
 もう紅葉が素晴らしくなりましたね。何日か霧にけむる中を通っておりましたが、あ
る朝とても良く晴れ、そして突然に紅葉した山々が目に写った時の感動は素晴らしいも
のでした。昨日は授業で山に入りましたが、何種類ものキノコを見ました。本当に自然
がそのままに保存された所だと思います。
 さて前置きはこのくらいにして、徳地むかしばなしを読み進めましょう。今日は柚野
の祖父から〔祖父の前 じいのまえ〕を打ってみました。今回の話と次回の話は関連が
あるのですよ。じゃ始めましょう。
 昔々、大和の国に、石川某(いしかわなにがし)という弓の名人がおりました。
 ある日のこと、大和城の城主から、その石川という人に
 「この地方に、全身真っ白な珍しい鶴が三羽住んでいる。これより三日の間に、その
  中の1羽を射落として献上すること。」という命令がくだされました。
 ところが、この人は弓の名人という評判の高い人ではありましたが、もうすっかり年
をとっていました。そして、弓をひくどころか、杖で体を支えてあるくのがやっとのこ
とでした。
 1日たち、2日目が過ぎ、そして、3日目となりましたが、この人はとうとう鶴を手
に入れることは出来ませんでした。仕方なく、それでも申し開きをすればという期待を
いだきながら登城しましたが、鶴を持って来なかったというので、お殿様にも会わせて
もらえず、そればかりか、お殿様の言いつけに従わなかったというので、刑罰まで与え
られてしまったのでした。むごいことに、その刑罰とは、この国に住むことはならぬ、
どこか他国に出て行けという、厳しいものだったのです。
 老人は大和の国を去り、杖をたよりにはるばると旅を続け、周防の国,この柚野の地
「祖父」にやって来たのでした。
 その頃の「祖父」は、飯ガ岳(いいがたけ)のふもとにあり、数軒の家があるだけの
小さな村でした。疲れはて、身も心も憔悴しきった旅の老人を見て、村人達は気の毒に
思い、誰も住んでいない家があるからと、そこに住むようにすすめました。そこで老人
は、この村に住みつく決心をしたのでした。
 家の前には、弓のような形をした大きな田んぼがありました。老人は、まだ弓に思い
を寄せていましたので、その田を「弓張りの田」と名づけ、村人たちと一緒に稲をつく
りました。それから、さらに二町ほどの新しい田を開き、その1つには『じいのまえ』
もう一町には『ばあのまえ』と名前をつけて耕作をしはじめました。
 『ばあのまえ』の田んぼは、四年ぐらいでまた荒れてしまいましたが『じいのまえ』
は残りました。老人はその田んぼを大きく広げて2つに分け、村人達にその片方をあげ
ました。
 『じいのまえ』の田んぼは、稲も良くできましたので、みんなはとても大切にし、お
かげで村人達も幸せな生活が出来るようになったのです。やがて、その田んぼは「祖父
(そぶ)のまえ」と呼ばれるようになり、その村も「祖父」というようになりました。
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
地名の由来を語った、そう・・・・「縁起」でしたね。
さて、この話の中の疑問点をいつものように取り出してみましょう。
(1)鶴はやはり口実でしょう。では、国を追われた真の理由は?
(2)老人一人だけの旅だったのでしょうか。
(3)大和より南へと向かったとすれば、柚野はコース上にはないのになぜ、わざわざ
   山に入ったのか。
(4)もともと百姓をしていた村人達の田んぼより、石川老人の開いた田が良かったの
   はなぜでしょう。
●まず、この石川某は氏があるから武士。なにがしとあるのは興味深いことです。それ
は田の名が残って、石川までわかっているのにその下が残らないということです。検地
や、寺の過去帳作成等がある前でしかも、人の移動にそう規制のなかった頃。大内氏の
支配も、まだ十分に及んでいなかった頃のことでしょうか。
次に現在、石川姓を名乗る家があることから、また杖をついての老人の旅は、当時不可
能ではなかったかと考えれば、たぶんこれは一族(といっても少人数)での移動だった
のではないでしょうか。
この石川老人?は(4)のことから考えてかなり物知り・博学であるように思えます。
頭が切れ過ぎて、他の家臣から恨まれたか、または殿様に煙たがられたのかもしれませ
ん。1つの田は荒れてしまったということですから、最初から耕作技術はなかったよう
ですね。たぶん、工夫に工夫を積み重ねたことで、自身も沢山の収穫を得、また村の人
の技術的指導も行ったのでしょう。じいの前と名づけて、目を細めている老人の姿には
やり遂げたという感慨がこもっているようです。
 中央の文化が、ここ柚野にももたらされていた、さらに言えば中央との行き来があっ
たということを伝えている話のような気がしましたが、皆さんはどう思われますか。
 では次回は石川老人の田についての話をお送りしますね。長い文読んで下さってあり
がとう。では。
 ★昔話の部分は少し変更しました。
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【徳地散歩22】柚野 祖父(21)の続き  88/12/ 4
 久し振りに、徳地昔話を開きました。前の21で予告しておいたところを、今日は紹
介しましょう。
■氏神様■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□□□□□□□□□□□□□
 現在『祖父』(そぶ)と呼ばれている所に、小さな山があります。
 昔、その山に、「石川・・・・」という一人の老人が来て、高さ五尺の石の五重の塔
を建てました。また、弓の形をした田を三つ開き、それらを「じいのまち」「ばあのま
ち」などと呼びました。その後、この「じいのまち」の田んぼだけが残り、今の祖父地
区になったと伝えられています。
 この石川の老人、実は大和の国に住んでいた「石川次郎秀康」という、弓の名人でし
た。ある時、将軍から、「ぬえ」という怪物を射るように命令されましたが、年老いて
いる自分には出来ないと断ったため、とおく西国に流罪になりました。長い旅を続けて
周防の国にたどりつき、佐波川をさかのぼり、そして今の祖父に住むようになったので
す。
 この老人が、ある日のこと、山で食料であるわらびの根を掘っていますと、根の下か
ら丸いきれいな石が出てきました。そして、まるで生きている物のように、自分からこ
ろころと転がって、ストーンと下の谷に落ちたかと思うと、また山の上の方へあがって
いき、頂上まで上がるとまた、もとの場所に転がり落ちてきて、初めの穴にすっぽりと
収まったのです。それを見ていた老人はたいそう不思議に思い、その石を家に持って帰
りました。
 そして、わらびの根の粉を少しだけ桶にいれて、この丸い石の前に置き、
「これ、石よ。お前に不思議な力があるものならば、わたしのとってきたわらびの粉を
このおけいっぱいにしておくれ。」
と、石に話しかけますと、驚いたことに、たちまち桶は、わらびの粉でいっぱいになり
ました。
 そこで、老人は何を思ったのか、今度は田の端にくいを立て、その丸い石を縄でしっ
かりとくくりつけて、何やら石に向かってつぶやきました。するとどうでしょう。その
くいの立ててある田んぼだけは大豊作になったのです。次の年もまた次の年も、他の田
んぼは不作でも、この田だけはたくさんのお米が取れるのでした。
 この話を伝え聞いた村人達は、
「もしかしたら、その石は神様の化身ではないのか。」「そんなありがたい石を、くい
に結びつけるなんて、もったいないことじゃ。」「新しく神社を作って、氏神様として
祭ろうではないか。」と口々に言ったので、老人も承知しました。
 村人が力を合わせて、伊勢山に神社を建て、この丸い石と、石の近くで見つかった鏡
と鈴をご神体として祭り、みんなで大切に敬いました。おかげで、この村はしだいに豊
かになっていったということです。
 残念なことに、亨保16年、火事にあって焼失したため、現在は伊勢山から離れた石
山という所に神社は移転されています。祭りは年三回行われますが、中でも秋の大祭り
が一番華やかに行われ、多くの人が参拝しています。
●●●●●●
 前の話と違う部分は、「鶴」が「ぬえ」に、殿様が将軍に、石川なにがしの名前がわ
かっていること。「じいのまえ」が「じいのまち」でしたね。
「ぬえ」が登場するのは確か「平家物語」ではなかったかと思います。「将軍」とくれ
ば、どうもすぐに連想するのは「室町幕府」ですが・・・徳地が歴史的に登場するのは
平氏による東大寺の焼き打ち頃ですから、時代は平安時代後期でしょう。「ぬえ」退治
では、すぐに呼び出されて退治してあるので、石川の名は登場していません。たぶん、
各武将に退治の布告があり、それぞれ配下の武士に命令が下されたものと思われます。
 石川老人に命令が下ったのは、まだ出来ると推測されたのではないでしょうか。それ
は、老人が田を開いたことから、また旅が出来たことからも考えられることです。
 (前は、多分一族で来たのだろうと言いましたが・・)
 では、なぜ命令にしたがわなかったのか。老人の作った田が良く出来たことといい、
また、石を有効に利用しようとしたことといい、かなり迷信に左右されない進歩的な人
であったと推察されます。「ぬえ」そのものの存在を信じていない、いないものは退治
のしようがないと考え断ったととも受け取れるのではないでしょうか。
 話は変わって、「弓」です。山の斜面に作るのですから、当然「弓」の形になります
ね。弓の話が〔前回〕出てきたのは、もしも、このことからだとすれば、また別の事が
推測されるわけで、これもまた面白いことです。
 石の話は、さあ、みなさんはどのように思われるでしょう。私は、これは別の方向か
らやって来たものだと思います。事実は、丸い石を誰かが見つけた。丸い石は自然には
そうそうないものです。これを神としてあがめた。社も作り、神社としての体裁を整え
た。丸い石を御神体として祭っている例は各地にありますから。石を祭る民族の系譜を
辿ってみると面白いかもしれませんね。
 最後に、食料としてわらびの根を掘っていた場面から、米がその頃は十分採れなかっ
のでしょう。石川老人が、その頃にここ八坂により進歩的な稲作技術を持ってきて自分
の田を改良に改良を重ねて良い田にしたか、または石のせいにしたとすれば、良い立地
条件を選んだか、まあなんらかのカルチャーショックをもたらしたのは確かだと思えま
す。まてよ・・・石を祭る習慣を石川老人が持ち込んだのかもしれません・・・。
 古き良き時代?かな、文からあれこれ想像してみるのも楽しいのでは、ありませんか
 長くなりました。今日はここで。
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【徳地散歩23】柚野 柚の木  88/12/ 4
 以下は、文化祭でPTAの劇として用意した台本です。劇の雰囲気が伝わるといいで
すね。
 <獅子舞>
(ナレーション)昔々、柚野の村にたいそう猟の好きな藤吉という者がおりました。藤
      吉は、毎日のように山に行ってわなをしかけ、ウサギをとったりイノシシ
      やタヌキをとったりして村の人達に自慢していました。今日も、藤吉は
      とった獲物を見せて自慢をしておりました。
●スポット
 ・・・・・・・・・<猟師の藤吉の家>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(藤吉)  どうじゃ、今日はウサギ20匹じゃたいしたもんじゃろが。
(村の衆1)なんと20匹じゃと、腕があがったのぉ。
(藤吉)  みんな、ちょっとばかり持ってかえってなべにでもしてくれーや。
(村の衆2)ここの敷物は、またでかいイノシシじゃないか。
(藤吉)  そうよ、今年の春にのぉ、そりゃ苦労したもんじゃ。
(村の衆1)そうでもよぉ。藤吉よぉ。まだ、大きいのがないのぉ。小物ばかりじゃで
(村の衆2)そうじゃの。山を越えた中野じゃ、五郎兵衛がなんなんちゅうてもそりゃ
      ぁ大きい熊をとったちゅうでよ。ありゃ、評判じゃったで。
(藤吉)  <機嫌悪そうに>熊がなんじゃ、わしの腕をもってすりゃ、軽いもんじゃ
(村の衆1)そうかのぉ。まだ無理じゃと思うがのぉ。
(藤吉)  よっしゃ、とって見せちゃろうじゃにゃーか。
(村の衆2)まあ、そんなに怒るなぁよ。冗談じゃ。おー今日は楽しませてもらった。
      おー酔うた酔うた。ほんじゃ、またの。おい、帰ろうで。
(村の衆1)ふん、ちょっととれたぐらいでええ気になっちょる。あー帰ろ帰ろ。
(藤吉)  <帰ってゆく村の衆に>あかにく言うて、おーみちょれよぉ。
(藤吉の母)<セキをしながら出て来る>藤吉よ、あんまりとると山の神様がお怒り
       になるじゃないかの、毎日食べるだけありゃええんじゃから。
(藤吉)  おっかぁよ。寝ちょらんとだめじゃないか。また病気がひどうなるでよ。
    熊のキモは病気にもええちゅうで。おりゃ、かならずとると言ったらとってみ
    せるからの。心配せんと、おれの腕をばかにしたやつに見せてやるから。
      <母を寝せる>よーし、ワナじゃ立派なワナじゃー!!つくるゾー。
●スポット消す
(ナレーション)その日から藤吉は何日も家にこもって、それはそれは立派なワナをこ
      しらえました。そして「今度こそ、でっかいのをきっと捕っちゃるでよ」
      と言いながら西が原の山にそのワナをしかけました。
        ところが、ワナをしかけて帰った日から藤吉は高い熱を出して寝込ん
       でしまいました。
●スポットオン   藤吉の家
 (藤吉の母)藤吉よーどうしたんじゃ。なにか変なもんでも食べたんじゃろうか。
(藤吉)  うーんおっかあ。痛い!痛いでよぉ。頭が割れそうじゃー。
 ・・<そのまま>・<家の前に村の衆が2~3人>・・・・・・・・・・・・・・・
(村の衆1)藤吉のやつ、病気で寝込んでおるそうじゃの。
(村の衆2)日頃からいっぺえウサギやイノシシを殺しておるからのぉ。おおかた、ば
      ちがあたったんじゃろう。
(村の衆3)なに言うちょるんじゃ藤吉からイノシシの肉をわけてもろうて喜んで食べ
      ておったじゃないかいの。
(村の衆2)まあ、それはそれ。殺したんはおれじゃないからのぉ。
(村の衆1)いつもえばっちょったから、ええ気味じゃ。
(村の衆3)そりゃそうと、この間から西が原の山のほうから気味の悪いキツネの声が
      せんかったか。
(村の衆2)おーわしも聞いた。ぞっとするような声じゃった。なんか悪いことがなけ
      りゃええがのぉ。おーぞくぞくする。はよ帰ろうで。
 <村の衆退場>●スポット消す      <次の場面の用意>・・
 (ナレーション)村の衆が聞いた気味の悪い声は、藤吉のワナにかかった大きな白い
     キツネの声でした。キツネはどうにかして逃げようとしましたが、藤吉が本
     気になってつくったワナですから簡単にはずれませんでした。エサのとれな
     いキツネはだんだん弱っていきました。
        さて、それから何日かたって藤吉の病気も少し軽くなり、ひょいと思
        い出したように西が原の山に出掛けていきました。
●スポットオン  〔山を背景に〕・・・・・・・・・・・・・・・・
 (藤吉)  あーまだ頭がずきずきする。さてと、たしかこのあたりじゃったがの。
      おっかかっちょる大きいぞぉ。<と、急にあとずさりする。>
      キッキツネじゃぁ!もう、骨になりかけじゃが・目んたまががわしの家の
      ほうをにらんじょる。飢え死んだんじゃ。うぁーはよ来りゃ良かった。
      わしをみちょる。うわぁー。<あわててころびながら退場。>
★準備が出来て ●スポットオン   <藤吉の家>・
(村の衆1)藤吉よ。でかいえものをとれたんかよ。
(村の衆2)まーまだ無理じゃろうて。
(藤吉)・・・・・・・・
(村の衆1)出来んなら出来んと言やええのに、虫のすかんやつじゃ。はよ、あやまれ
(藤吉) <うなだれていたが、ぼそっと>とった。
(村の衆1)そいじゃったら、見せてみいや。どっこにもありゃせんが。
(藤吉)  いいんや。もう骨と皮じゃ。西が原の山にころがっちょる。
(村の衆1)本当かいの。よーし、そいじゃったら見てくらぁ。うそじゃったらわしら
      の前で、土下座せーよ。よーし、みんな行ってみちゃろうぜ。
  <村の衆退場>
(藤吉の母)藤吉よ、この前出ていってからずっと黙っちょるがどうしたんじゃ。とれ
      んかったんじゃないかいの。
(藤吉)  ・・・・おっかあ・・
(藤吉の母)いったいどうしたというんじゃ
(藤吉)  おら、おキツネ様を殺してしもうた。おら、どうしたらええんじゃ。
(藤吉の母)本当か。あーなんちゅうことをしてくれたんじゃー。
 <そこへ、村の衆が青ざめて戻ってくる>
(村の衆1)本当じゃった。ありゃ、おキツネ様じゃ。たたりがあるぞ。なんであんな
      ことをしたんじゃ。
(村の衆3)そうじゃ、この罰あたりが。
(村の衆2)悪いことがなければええがのぉ。
(藤吉の母)あんたらが、藤吉にあねなことを言うからじゃ。言わっかったらこねーな
      りゃせんじゃったものを。
(村の衆2)そうじゃ、みんなでけしかけるからじゃ。
(村の衆1)悪気はなかったんじゃ。ちょっとええ気になっちょったから言ってしもう
      たんじゃ。●スポット赤!!
(村の衆3)おい、西が原の山に火が見える。なんぼうも見えるぞ。
(村の衆2)ほんとじゃ。ありゃキツネ火じゃ。たたりじゃ。おりゃ家に帰る。
(みんな口々に)家が心配じゃはよ帰って戸をしっかりと閉めよう。<退場>
<あとには、うなだれた藤吉と心配そうに山をみあげる藤吉の母>
●幕おろす  ●スポット消す ・・・・・・・・・・・・
(ナレーション)村人達が見た火はとろとろと燃えて近くなったり遠くなったりして
     動き何日も燃えていました。そのうちに藤吉の家は火事になり丸焼けになっ
てしまい、さらにワナにかかったキツネを見にいった村人達の家にも火が飛んでいって
燃え狂いとうとう村の二,三軒を残してみんな焼けてしまいました。
 そのうえ、村の真ん中にあった大きな杉の木に燃えうつりました。消えるかと思えば
また激しく燃え、新しく小屋をつくっても火の子が飛んで、焼けてしまうのです。それ
が、何日も続き、村の人達はすっかり弱ってしまいました。
 これは、きっと白キツネのたたりだということになって、火よけの神様に願をかける
ことになりました。
幕を開ける  ●ライトオン●スポットオン 社の境内>・・
(全員)    どうかあの火を消してください。
(村の長)   今日のところは帰ろう。また明日来てお願いしよう。
 <村人帰りかけるが、藤吉とその母だけは座りこんで祈っている。>
(村の長)   お藤さん、病気の体にさわるからもう帰りなさい。もう暗くなるし冷
        えるから。
(藤吉の母)  ・・・・・・・・
(遠くから)  キツネを殺したのは藤吉じゃからのぉ
(村の長)   なにを言う。みんな仲間じゃ。みんなで苦労して田畑を開いてきたん
        じゃないか。村がこんなになったんはみんなで一緒に力をあわせてき
        たんじゃないか。さあ、お藤さん気にすることはない。帰ろう。
(藤吉の母)  ・・・・・
(村の長)   わかったわかった気のすむようにしなさい。
<親子で一心に祈っている。みかねたように村の長帰る。>
●スポット青!!●ライト消す・親子でいたわりあいながら祈る姿。音楽・・・・
(ナレーション)それから、火は燃えつづけ、そして社の境内にはいつもいたわりあい
ながら祈り続けている藤吉親子の姿がありました。とある晩のことです。・
(神様の声)  二人とも御苦労じゃったのぉ。よーわかった。お前達の気持ちもよー
      わかった。明日、村の衆を集めなさい。村の衆が集まったところで火を消
      してやることにしよう。
<二人とも頭をこすりつけて拝む>
●スポット消す
(ナレーション)こうして、喜んだ二人は村の衆に神様のお告げを触れてまわりました
●スポット・ライトオン    <ライトオン><境内>・・・
<村人達が集まってくる>
(村の衆1)本当かのぉ。まだ、火の粉を散らしておるが
(村の衆2)ばか、神様の前じゃ、熱心に祈らんかい。
(村の衆3)お、おい火が消えた。消えたぞぉー!!
(全員)  有り難いことじゃ、有り難いことじゃ。
(村の長) 有り難うございました。これで、わたしら安心してすごせます。有り難う
      ございました。二人の祈りも通じたのぉ。御苦労じゃったのぉ。
      <みんなにむかって>
      どうじゃ、これはわしのじいさまから聞いた話じゃが、火の神様はことの
    ほか獅子舞ちゅうのがお好きらしい。お礼に獅子舞をこれから神前で奉納した
 らとおもうんじゃが。
(みんな) それは、いい考えでございます。
(村の衆1)そうはいっても、獅子舞なぞ見たことも聞いたこともございませんが。
(村の長) 誰か知っておるものは
 ・・<村人達考えこんでしまう。>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(老人 ) わしが、ひとつ踊ってみちゃろうかい。
      <腰のてぬぐいを頭にかぶり、そばにあった盆を手にもって足をふんばり
       盆を振り回して踊り始める。>
(みんな)手拍子
     <村の衆2が太鼓をもってきて叩きはじめる><にぎやかにする。>
(村の長) それそれ、獅子舞はこれがええ
(村の衆2)この踊りを獅子舞にやりかえて奉納したら、神様もきっと喜んでくださる
      じゃろうて。
 <老人はまだ踊っている。音を少し低くして>
(村の衆3)そうじゃそうじゃ。もうちょっと変えての。
(村の衆2)わしが、獅子舞の道具をつくってみちゃろう。 まっちょれ。<退場>
(村の長) 藤吉よ、お前が最初に舞うがええぞ、もう火事がないようにとの。
(村の衆2)ほうれえ獅子舞の道具じゃ。
(村の長) もうできたか。おー立派なものじゃ。(少し暗く・口々に喋る)
(みんな)<支度が出来てから>   獅子舞じゃぁ!!
 <藤吉かぶって踊り始める>
 <しばらくして>●幕をおろす
(ナレーション)こうして、みんなで手を加えてとうとう立派な獅子舞にしたのでした
        それからは、村人が毎年交代で獅子舞を奉納し、悪払いを祈りました
      そして、村に一軒の家がなくなるまで続けられることになったのでした。
      おかげで、その後村には火事が一度もおこらなかったということです。
●みんな登場したらスポット・・・・・・・・・・・・
       このお話は、柚野に伝わる獅子舞からとりました。少し話の筋が変えて
       ありますが、育友会による劇、獅子舞いかがでしたでしょうか。
         皆様有り難うございました。
●●はい、これで終了です。ししまい
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【徳地散歩24】 出雲 庄方  88/12/18
 忘年会のシーズンでお酒に関係することも多くなりました。今回はお酒に寄せて、ま
た徳地昔話から、1つ紹介することにします。
 ・・・徳地昔話より・・・・・・
〔〔〔〔〔〔 泉 長 者 〕〕〕〕〕〕〕〕〕〕〕〕〕〕〕〕〕〕〕〕〕〕〕〕
 むかしむかし、佐波の里に太郎とハナという仲のいい百姓夫婦が住んでいました。
 ある夏の日、二人は山の畑に出かけました。昼近く、仕事もたいそう出来たので、ひ
と休みしているうちに太郎はうつらうつらと居眠りを始めました。
 すると、むこうの岩の間から、いっぴきのトンボが飛んできて、太郎の顔の上にとま
り、しきりと口へしっぽをさし入れては、また岩の方へと飛び去るではありませんか。
 こうしたことを何べんも繰り返しているうちに、太郎が目をさましました。そして、
『今、わしは夢を見た。ええ酒を飲んだ夢じゃった。』と舌なめずりをしながら言うの
です。
 ハナはおかしくなって、『さっき、とんぼが、あんたの顔にとまっちょったから、そ
んな夢を見たんじゃろう。』と笑いましたが、『なにや、とんぼが・・・。じゃが、ほ
れ、まだこんなに酒のにおいが残っちょるぞ。』と言うので、太郎の口をかいでみると
まっこと、酒の匂いがするのです。
 不思議に思った二人が、とんぼの飛んできた岩の方に行ってみると、酒の匂いがプウ
ンと鼻をつく泉がありました。
 喜んだ二人は、泉から酒をくんできて酒屋を始めました。
 その、酒がまたうまいという評判がたって、たちまち太郎は大金持ちになり、名前も
左衛門太郎と改めました。
 しかし、二人にとって寂しいことには、子供がありません。そこで、小鯖(おさば)
の洞海寺(どうかいじ)の仏様に子供が授かるようにお祈りしました。
 そのおかげで、やがて女の子が生まれました。「ゆり」と名前をつけて、かわいがっ
て育てました。ゆりは大きくなるにつれて、ゆりの花のように美しくなり、それが、ま
た二人の自慢でした。
 こうなると、左衛門太郎は欲が出て、都の天子様から長者という呼び名をいただこう
と思うようになりました。そこで、たくさんの宝物を持たせて、たびたび使いの者を都
へ出しました。
 ようやく都から天子様のお使いが来て
『お前の家の一番大事な宝物は何か。』とたずねました。左衛門太郎が、
『それは、むすめのゆりでございます。』
と答えますと、お使いの者は、
『そのゆりという言うむすめを差し出せば、長者の呼び名を下さるであろう。』
と言いました。
 夫婦は色々相談しましたが、ゆりも都に行けば幸せになれるだろうと思い、さしあげ
ることにしました。しかし、その後、長者はゆりのいない寂しさに、とうとう重い病気
にかかってしまいました。知らせを受けて、ゆりがはるばる都から帰ってきた時には、
長者夫婦は、もう亡くなっていました。
 悲しんだゆりは、父と母のために仏様をつくり、お堂を建てて祭りました。それが堀
の大日堂です。
 泉の酒もそれからは出なくなったそうです。
 大日堂の石の仏様の写真が出ておりましたが、人間味あふれるお顔でした。
酒が湧く話は、やはり各地に残っているようですね。本当に酒がでたのかもしれません
ね。真実は酒つくりに良い水だったのかもしれませんが。
 また、天子様への願いなど、そうも簡単に使いが出せ、つながりを持てるというのも
天子様、つまり徳地と京都のつながりの深さを示す文でもあると思うのは、ちょっとい
きすぎかな?
 読んでみて、この文には、道徳的なもの・昔話の特徴である不可思議さを含んでおり
秀作であると思いますが、いかがでしょうか。さて皆様はこの文から、何を堀りだされ
ましたか。?
 では、またね。
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【徳地散歩25】わらべ歌から  88/12/25
 今日は、わらべ歌を紹介しましょう。
〔しびれをとるまじない歌〕・まあ、ためしてみて下さい。ぶち効くよ。
 『しんびれ しんびれ
      京にのぼれ
         おらも
           ついてのぼろうか 』
 ●正座が主であった頃、この足のしびれは、やっぱり昔の人とて、大変だったようで
  すね。がまんしている内に感覚がなくなって、いざ立とうとすると、転んだ経験は
  ないですか。やわらかい座蒲団ほど、しびれはきついですね。しびれたら、親指を
  重ねてみる。右か左に交互に体重をかけるですが・・・日頃座っていないとだめで
  すね。
 さてと他に、もう少し紹介しましょう。
 『いのすけ いのすけ
    いなんでも とまれ
      だんご汁 すうて いね』
                  〔お客さん とまっていけ〕
 『油買い しょうゆ買い
    行きしな  あかいの
      もどりしな 暗いの
        きつねでも おらんか』
 『ここから 徳山まで
    なんぼとる
      みんなで合わせて  十五銭
        三銭まけちょけ
          あか ちょこ べ』
 ●徳地昔話の編集に加わった方の話では、この歌の節を覚えている人は、もうわずか
  になられただろうということでした。文句だけ見ていると、なんとなく生活が見え
  るような気がします。それと徳地の人情も・・・。
  今日はここまで。
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【徳地散歩26】柚野 中野  89/ 1/ 9
 お元気ですか。しばらく本棚に置いてた「徳地むかし話」を、また読んでみることに
しました。今回は、私の職場からすぐの所の、柚木 中野にある、城山城に関するお話
にいたしましょう。もし、通られることがあったら、中野をすぐ下ると温泉もあります
し、ゆったりとしながら、この話でも思いだして下さい。前書きが長くなりました。始
めましょう。(ちょっとした歴史の勉強にどうぞ)
・・陶 春賢の一夜城・・
 柚木(ゆのき)の中野というところに「陶春賢の一夜城」と呼ばれている城跡があり
ます。国道315号線から、およそ300m上がった場所で、飯が岳の北西方向に延び
た尾根の端の、険しい山の頂上あたりが、その城跡です。
 今からおよそ400年ぐらいの昔、山口地方は陶氏が治め、広島地方は毛利氏が、ま
た津和野あたりは吉見氏が、それぞれ大きい勢力をもっていて、お互いにすきをねらい
戦いをしかける戦国時代でした。
 当時、柚木地方は陶氏の勢力下にあり、津和野の三本松城をもとにして、徳地方面に
力を伸ばそうとしていた吉見氏を防ぐために、この地に城を築いていたということは、
十分考えられます。
 また、柚木は、そのころの交通上からも、大切な意味を持っていました。津和野から
防府に至る石州街道は、柚木を通って八坂、堀と佐波川ぞいに下っていましたし、その
途中から地福に出て、山口に通ずることもできました。
 さらに、柚木から東に進み、鹿野を通って、徳山に通ずる道もありました。そういう
重要な場所だからこそ、陶氏もここに城を築いたといえましょう。
 しかし、城と言っても、江戸時代のように立派な建物があったわけでもありません。
山頂を切り開いて平地にした程度のものなのです。
 さて、弘治元年9月の初め、陶晴賢は毛利軍を討つために、2万の軍勢を率いて、山
口を出発しました。そして、この柚木の城山にも、約2千の兵士が数日間滞在したとい
われています。
 一説には、6千人の兵士が、たった一晩のうちに城を築いたので、「一夜城」と呼ば
れるということですが、城はそれ以前から出来ていたともいわれます。
 陶春賢は、この城を出発する時、一本の矢を土に深々と突きさして、これを記念とし
ました。その時すでに陶春賢は、今回の戦いが容易なものではないこと、あるいは負け
戦であることを予想していたのかも知れません。
 岩国に着いたのは9月15日頃、そして9月20日ごろに、今津というところから厳
島(いつくしま)に渡りました。
 9月の末、陶軍は強敵毛利軍を相手に激しく戦いましたが敗れ、大将陶春賢は、追い
つめられて、大江ノ浦において自刃しました。
 ところで、陶春賢が一夜城(城山城)を出発する時、土に突きさしておいた矢は、か
たみとなって飯が岳に根づき、400年以上たった今でも、そのあたりには、弓の矢に
つごうのよい、節の遠い矢竹が生えています。
●●●●●
 戦国時代の勢力が、よくわかるものだし、また、中野が東からの敵の侵入に対して、
守りの要所だった理由なども詳しく書いてあると思います。
 柚野の温泉は、またいつか紹介することにしますね。では。
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【徳地散歩27】徳地 柚野散策  89/ 1/15
 今回は私の職場付近を紹介してみましょう。
 防府から上がってくる道と、地福に抜ける道、徳佐からの道が、丁度合流する所に私
の職場があります。青い空の下、横に山が広がり飯が岳に連なっています。急な坂を下
って、道路を横切りさらに下に下ると雑木林。木をわけていくと、そこには佐波川の支
流があります。夏、川底の石がくっきりと見え、うっすらと木々の緑を水面に写して、
それは、綺麗な流れでした。秋には、キノコを採集しましたが、紅葉が映えて、赤や黄
のさざ波が立ち、みごとな眺めでした。
 道路にもどって北に少し行くと、大きな樅の木が一本庭にある家があります。しばら
くいくと、古めかしい石燈籠が道の右側に立っています。そして道が分岐するところへ
さしかかります。ここには、立派な道祖神が立っており、村の境界であったとも思われ
ます。ここを左に折れて、川づたいに上がっていくと、徳彰ー鹿野間の道に出ますが、
その直前付近に、今度は地蔵様をかたどった道祖神が2体仲良く立っておられます。男
神と女神でしょうか。出会った道を右に進むと商店兼温泉があります。ここを左にあが
ると河岸段丘が見れますし、またお寺もあります。
 さて、逆の方向・・。坂を下ると、桜並木が続きます。古い土蔵を過ぎて、2本の道
が合流するあたりに、ニジマスの養殖場があります。脱サラで、養殖を始められたとの
ことですが、軌道に乗ってきているとか。さらに下ると、地蔵様が立っています。異風
で、きっと見られたら心に残るでしょう。
 今回はこれまでに。昔話は、次回からまた続けましょう。
 生徒達は、寄宿舎生活を始めました。私も、一週間に一度泊まります。
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【徳地散歩28】柚野猿岡  89/ 2/ 5
 お玉淵の由来
 話をそのまま文にした様子ですが、方言が随所に入っており興味深いものです。
ただ、一部、本当に徳地で使用されているのか不明のものもありました。
では、どうぞ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 うちがまだ小さい頃、雨がひどうに降ったあとにゃあ、いつもうちのおばあちゃんが
「お玉淵に行くんじゃないぞ。」ちゅうて言うたもんじゃった。
 お玉淵ちゅうのは、河内(こうち)の奥にある猿岡の川にある淵じゃが、今じゃあ、
もうその淵も6年前ごろに出た大水で、淵ちゅうほど深くはなくなってしもうたがの。
 うちゃあ、子供心に、なしてお玉淵に行っちゃあいけんのか不思議でならんかった。
それで、ばあちゃんに聞くと、ばあちゃんは
「あのなぁ、お玉淵にゃあ、お玉が出るんじゃあ。」と、仕事の手をおいて話してくれ
たもんじゃ。
 
 むかしのう、猿岡へんに、お玉ちゅうきれいな娘がおったげな。そのお玉は、たいそ
う恥ずかしがり屋じゃったそうな。それに、お玉は近所の大工の太作を好いちょったん
じゃ。じゃが、お玉はとても内気じゃったけえ、村の若いもんも古いもんも、誰もその
ことを知らんかった。
 じゃが、たった一人だけそのことを知っちょる者があった。それは、お玉の兄さあじ
ゃった。
 「おめえ、大工の太作にほれちょるんじゃろう。」
 お玉は赤うなって何もよう言わんかった。それで、兄さあは、すぐにそのことを太作
に言いにいったんじゃ。
 太作は兄さあの話を聞くとすぐに、「わしもお玉は好きじゃ。いっしょになってもえ
え。」と、言うたげな。なにせ、お玉は村じゃいちばんきれいなちゅううわさじゃった
けえなぁ。貧乏ちゅうのが、太作の頭にちいとひっかかったが、まあ、どうにかなるじ
ゃろうと、お玉とみょうとになる気になったらしいんじゃのう。
 が、ある日のことじゃ。太作は庄屋の娘っこから一緒になってくれちゅうて言われ、
お金の欲がからんで、お玉を捨て、庄屋の娘とみょうとになることになってしもうた。
「太作さあ、太作さあー、なしてじゃあ。お前さんが、死ぬほど好きじゃったのに。な
んでじゃあー。」
 お玉は太作に泣きながら言うても、はあだめじゃった。しばらくたって、太作は庄屋
の娘と一緒になってしもうた。
 その日から、お玉は仕事に出んと泣きどおしじゃったが、ある日、とうとう近くの淵
に身を投げて死んでしもうた。ちょうど、雨がざあざあとひどうに降る日じゃったと。
 それからちゅうもんは、その淵にゃあ、雨が降ると、お玉の霊が出るちゅううわさじ
ゃ。
 
 今じゃ、大水で、お玉淵も浅うになってしもうたからのう。お玉もどこへやらに行っ
てしもうたんじゃろういや。
●よくある話と言えばそれまでですが。太作がその後どうなったか?興味のあるところ
 です。お玉もどこへやらの所に、哀れさと、どことなくユーモラスな響きがあって
 にんまりしてしまいました。
 次回も、これに類したお話を送りましょう。では。
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【徳地散歩29】出雲 庄方  89/ 2/12
 今日は「蛇森」の話
 佐波川と島地川が合流するところの北側の里を庄方といいますが、その里の田んぼの
中に1か所、岩と草ばかりの荒地があります。人々は、そこを「蛇森」と、呼んでいま
す。
 その昔、そこに、「尾蔵(伊賀地地区の地名)の真砂は尽きるとも、金子自庵の金は
尽きまい。」と、うわさされるほどの長者が住んでいました。
 その長者の所に奉公にあがっている「おかじ」という娘がいました。気だてがよくて
親切で、しかも親孝行な娘でした。
 ある日、長者の家に一人の乞食がやってきました。気の優しいおかじは、かわいそう
に思い、そっと一握りの米をやって帰しました。
 その様子を見ていた自庵は、たいへん怒り、おかじを物置きに閉じ込めてしまいまし
た。それでも、まだ腹の虫がおさまらなかったとみえて、その物置きの中に、毎日、一
匹ずつ、蛇を入れて蛇責めにしたのです。
 かわいそうなおかじは、あまりの恐ろしさに、とうとう半狂乱になってしまいました
そのことを知った土地の人々は、いっせいに自庵の強欲非道さをなじり、おかじへ同情
を寄せました。
 一方、おかじの里では、娘からの便りが跡絶えて久しくなるので、どうしたのかと心
配して、長者の屋敷に使いを出しました。来てみて、びっくり。すぐにその様子はおか
じの里に伝えられました。家に居たおかじの姉がそれを聞き、あまりのむごさに大変怒
り、逆上した女の執念で「金子自庵を火の海にかけてやる。」と、呪いの願いをしまし
た。
 なんと女の一念のすさまじいこと。七日七夜、照る日も降る日も隣村から山坂を越え
お宮と一心に走りました。
 口に櫛をくわえ、腰に一反の白木綿を巻いてたらし、それが地につかないようにひた
に呪いの釘を打つのです。自庵を形どったわら人形の胸に、思いをこめて釘を打つので
す。
 ついに満願の日がやってきました。姉は、その日も櫛をくわえ、腰に白木綿を巻いて
走りました。そして、手洗川(出雲神社付近の佐波川をこの地方の人は手洗川・ちょう
ずがわ・という。参拝のおりに、ここで手を清めたなごりであろうか。)にさしかかっ
た時、悲しいことに、ばったりと人に出会ってしまいました。願かけの御参りの途中で
人に会ってしまうと、願が消えてしまうというのです。
 姉は泣きました。そして、泣く泣く、また百日呪いを始めました。来る日も来る日も
真夜中、遠く山や峠を越えて走りました。
 とうとう満願の百日目を来ました。今日も、髪にさしていた櫛を抜き取ると、しっか
と口にくわえ白木綿を腰に巻き、お宮にむかって走りました。無事、釘を打ち終え、手
洗川とって帰した時、そこに大きな牛が横たわっていました。丑三つ時に牛に出会うと
は縁起がいい。これは、立願牛(りゅうがんうし)に違いないと思い、牛をひょいと跳
び越えて峠へき急ぎました。
 峠を登りつめて、後ろを振り返ると、自庵の家のある辺りから、真っ赤な火のてが無
間地獄のように渦巻いてたちのぼっているのが見えました。
 富を誇っていた自庵の家も、たちまち燃え落ちてしまい、その後不幸が続き、ほどな
く絶えてしまいました。
 昔から、この辺りには、「無間の鐘をつけば、この世で福徳を得て大金持ちになるが
来世は、必ず、無間地獄に落ちる。またこの鐘をついて、財を得た者は、その財を少し
でも、他人に施すと、たちまち一文なしになってしまう。」と言う言い伝えが、残って
います。
おかじを、むごい仕打ちで死なせた天罰があたったのだと言っています。そして、今も
人々はたたりを恐れ、蛇森には近付かないし、自庵について多くを語りません。
●●●●●●
 この話は、2つか3っつの話が絡んでいるようですね。というのも、後の無間の鐘に
ついての話は急に出てきているようですし。おかじは、前の部分で半狂乱、後半で死ん
だとなっているからです。また、蛇森について話を始めながら、内容は、特に触れてい
ない。まあ、蛇責めの所が関係しているのでしょう。
 それで・・・次のように解釈することにしました。
金子自庵は、その無間の鐘をついた・・だから、施しに対しては、神経質だった。だか
ら、施しをした、おかじを恨んだ。おかじは、たぶん餓死かなんかしたのでしょう。
自庵の屋敷の後に、蛇が沢山集まってきて、それは、おかじの死に様と関係あると人々
が思った。だから、人が近付かない・・・藪となり森となった。また、たたりのあった
場所だからということもあったかもしれない。
 それから、昔の呪いの方法、たぶん権力者に対抗する手段としては、これしかなかっ
たのでしょう。効果が信じられている、またはいたということは、一種の慰めであった
と思われます。
権力に甘んじていた背景には、こんな思想の背景があったのでしょうね。
 疑問点は、無間の鐘。これは、何でしょうか。誰か調べてみませんか。
さて、徳地の長者さん達は、長者ケ原の方といい、この方といい、人気がなかったので
すね。それとも、同一人物でしょうか。
 それじゃ、またね。
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【徳地散歩30】出雲 須路  89/ 2/26
今日は井手山権現とからすから
 
 これは、もうたいへん古い昔のお話です。
須路(すろ)に井手山というとても高い山があって、古くから神様が住んでおられまし
た。
 井手山はとても高いので、この頂きからは村を一望することができました。
 春ともなれば、里ではれんげ畑や菜種畑や麦畑が美しい絵模様を表し、あちらこちら
の家には桃の花が咲き、遠くかすみのかかった景色は誠にのどかなものでした。
 夏になれば、すげがさに赤いたすきがけの早乙女たちの、
「ここは道端よう植えておきゃれ
 あすは殿の水まわり
 あすは殿の水まわり」
という田植唄も楽しく、村一面、青だたみを敷きつめたような緑でおおわれます。
 秋には黄金の稲穂が波打って、村人達が豊作を感謝する祭り太鼓か聞こえます。
 神様はとてもこの山を気にいっておられたのですが、ある日、急に向こうの山に移り
たくなりました。
 でも、向こうの山までは、かなりの距離がありましたので、神様はほとほと困って思
案にくれておられましたが、田んぼの真ん中に大きな石があるのを発見されました。
「ひとまずあの石まで飛んでおり、そして向こうの山へもう一飛びしよう。」
と思いつき、とうとう向こうの山へ渡っていかれました。
 それからというもの、神様が渡られた森の中では毎晩のようにちんがり、ちんがりと
火がともっているのが、村人たちの目にうつるようになりました。
「これは不思議なことだ。いったい何がおこったのだろう。」と村人たちは様々な評定
をしました。そして、相談のすえ、
「大きいお社(やしろ)へ行って神様のおみくじをいただいたらよかろう。」というこ
とで、おみくじをいただいてみますと、
「井手山の権現様がこの山に来たいとのこと。」
 そこで、村人たちは、大急ぎで山を開墾し、総出でお宮を建ててあげました。
 これが、今の熊野神社です。
 このお宮の氏子は、堀・須路・伏野(ふしの)の人達で、毎日四月八日と秋の十月八
日の二回、お祭りが行われてきました。
 熊野神社の後の森には多くのからすが住んでいますが、その中で白い羽を二・三本も
っているのが神社のお使いひめだと言われています。
 だから昔から神社に奉納してある幕やのぼりには、ほとんどからすの絵が入っていま
す。
 からすといえば、せっかく播(ま)いた種をほじくったり、うれたスイカやトマトを
つついたりいたずらしてよい印象がありませんが、村人たちは、「おつかいひめのから
す」を大切にし、いじめたり、殺してはいけないと言い伝えてきました。
 そして、からすがしんだりしたのを見ると、「なにかよくないことが起きる」と信じ
ていました。
●●●●
 最初の文は徳地の美しい光景が描かれ、懐かしい響きがあります。この部分は誰の手
になるのかわかりませんが、読んでいてひかれました。
 熊野権現とからすの組みあわせは有名です。白い羽は、アルビノで突然変異種。
そういえば我が山口市も、しろへび伝説がありました。アオダイショウで白いのは
やはり神のお使いとなっています。白は無垢とか清浄を表すので、神と重なったのでし
ょう。
 それでは、いつものとおりに疑問点を出してみると
(1)なぜ石を中継しなくてはならなかったのか、地面ではいけないのか。
 石と神の関係は、昔から深い関係にあるようです。石に神が宿るという自然信仰は
 そう珍しいものではありません。地面が汚れたものであると考えれば、納得もいくの
 ですが、この神が地面を恐れるというのは根拠がないようにも思います。地は万物を
 生み出す聖なるものであるはずですから(こりゃキリスト教だったっけ)
(2)古い昔に、麦畑の組み合わせは疑問。たぶん、今の模様が入ったのでしょう。
(3)唄の中のおきやれは、京言葉ではないだろうか。しかし、この唄に変更があった
   とは考えにくいので、当地の唄となる。どこから誰が伝えたか?
   それとも、おきやれは徳地の言葉なのか。
(4)鳥の中でカラスだけがこうも人間に関わったのはなぜか。
   黒いから?嗅覚がするどいから?死肉を食べるから?
   死者の肉を食べるものに畏敬の念を持ったのは、鳥葬を行うネパール方面の民族
   ではなかったかと思いますが、日本人の起源と関係があるかもしれませんね。
今日はこれにて失礼します。
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