『お話 節分』
 節分について授業で話すために調べてまとめてみたものです。改行はワープロの文書そのままなので表示が少しずれていますけど。(苦笑)いつか修正しましょう。出典名はそれぞれの区切りにあります。(M.M)

 雑節の一つで、立春の前日をいう。現在用いている暦では、2月3日または4日ごろに
あたる。                                    
 
 立春から、新しい年が始まると考えると、節分は年の最後と考えられる。元来、節気 
(年の終わり・・・12月のこと・・歳末・歳暮と同じ意味)や雑節は、太陽の黄経を基
準にしたもので、これは旧暦における太陽暦的要素である。             
 
 もとは、立春,立夏,立秋,立冬などいずれも季節が改まる時であったから、四季とも
に節分があったが、春ばかりにこの名が伝わった。古くは1日が夜に始まり、次の昼にお
よんだので、節分の夜は実は立春の夜のことであったが、1日の数え方が変わって朝から
夜に続くようになると、節分は立春の前日をさすようになった。           
 
 この春立つ日は旧暦でで新年の(7日正月)前後に回ってきたが、うるう年には正月以
前にあたることもあった。(年のうちに春はきにけり)と古今集に詠まれたのはこのよう
な場合である。                                 
 
 立春の節分がとくに重んじられたのは、これが、年頭の重い行事に数えられたからであ
る。現在も各地に様々な節分習俗が伝承されている。いずれも新年を迎えるのにふさわし
い行事で邪気(じゃき)をはらい幸いを願う作法が目だっている。          
 
 節分の夜の行事で一般に行われるのは鬼打ち、豆まきであった。日暮れ前にダイズをい
り、夜になってから『鬼は外、福は内』などと唱えながら豆を内外に投げ、鬼を追って戸
口を閉ざす。江戸時代(1603〜1867)以来、都会の社寺でもこの除災神事を行う
が、これは平安時代(744〜1191)の宮廷では12月の〔つごもり〕に行った・・
追儺(ついな=鬼はらい)の伝統を復興したものと説明されている。しかし、春のはじめ
に神が訪れて祝福を与えてくれるという信仰は古くからあり、そのため家に神を迎えて祭
るためには、はらいをする必要があった。この両者が習合して悪鬼をはらう行事に成長し
たのである。                                  
 
 この夜、門口に立って厄はらいの祝言を述べた物ごい(ほかい人)は実は訪れる神の信
仰の変化であった。戸口に焼きイワシの頭とヒイラギの小枝をさす習俗も悪鬼の進入を防
ぐためといわれ、ニンニクなどの臭気の強いものを用いるところもあり『やいかがし』と
いって田畑に立てる『かがし』と同様に考えるところもあるが、もとはこれも春を迎えて
物忌みする家の印であった。『虫の口焼き』と称してブトやヘビその他の農耕に害をなす
虫鳥獣の名を呼びながら音を立てて燃えるトベラなどの木の葉を焚き、屋内を臭気と煙で
満たす作法もある。『成り木責め』『木まじない』もこの日にする地方がある。モグラの
害をふせぐために畑にナマコをひきまわる『なまこひき』『もぐらうち』も節分に行われ
た行事である。その他、豆まきにともなって、いろりの灰に12の豆をおき、その焼け方
によって月々の天候を占う『豆占』『年だめし』や初夢の夢占いもあった。      
 
 立春を正月行事として重んずるのは中国の伝統で、古代から農事のはじめとして役人が
立春の前日に東の郊外に出て春を迎え、土牛と芒神(ぼうしん)の像をかついて進農の印
とした。土牛は土でつくった牛で後には春牛とよぶようになった。芒神は古くは匂芒神=
(こうぼうしん)といい、正月の神の名前であるが古くは樹木をつかさどる神ともいう。
立春の当日には、この芒神と土牛とを天子にささげ、終わって土牛をむちうち、これを打
春(だしゅん)と言った。また、この日には春餅(しゅんぺい)を食べたり、特に女子は
ダイコンを食べるならわしがあり、これをか咬春(こうしゅん)といって春の眠りをさま
すことができるといわれた。                           
                    平山 敏治郎 平凡社世界大百科辞典   
 
 豆まき
 
 節分その他の機会にいり豆をまくこと。『福は内、鬼は外』なとと唱えながら、枡(ま
す)に入れた豆を年男がまく。米をまく散米『ざんまい・・<うちまき>ともいう』の神
事儀礼の変形であり、下級の精霊に対する饗応の一つの変形である。節分にかぎらず、お
おみそかに豆まきをするところがあるのは、どの年を1年の境と見るかの相違にすぎない
。年の境には、祭りを受けるために年神が来臨するが、年神以外にもこれに付属して寄り
集まってくる精霊があり、それらに精霊に対する供物を豆まきの形であたえるのである。
もちろん年神の性格にも時代的な変遷があり、主客の混同も行われている。例えば節分に
は邪悪な鬼がやってくるという考えが芽生えると豆をまいてその鬼を追い払うのだという
解釈が生まれてくる。                              
                  井之口 章次 平凡社世界大百科辞典     
 
 追儺(ついな)
 
 疫鬼を追い払う習俗。中国では最古の起源を持つ民俗で、周で方相氏(大儺)がクマの
皮をかぶって黄金の4目をつけ、黒赤の衣装に矛(ほこ)と盾(たて)を持ち、百官を率
いて悪鬼を追い、漢では、モモの弓にイバラの矢、赤頭巾(あかずきん)の童子数百人を
動員している。奇怪な服装や動作によって悪神をおどす呪(じゅ)術的行事であったが、
唐・宋時代を過ぎると遊戯化して衰え、ただ鍾馗(しょうき)の絵像をかかげ、爆竹を鳴
らす程度になった。                               
 
 日本では、追儺は陰陽道(おんようどう)の行事として取り入れられ、文武天皇の慶雲
3年(706)に疫病流行し、百姓が多く死んだので、その年の晦日(みそか)に土牛を
作って鬼払いをしたというのが初見である。その後はこれが朝廷の公事となって、毎年1
2月に行われた。陰陽師が月華門から入って南殿のほとりで経文を読み、ついて方相氏が
鬼はらいの声をあげ、矛をもって盾を叩くこと三度、群臣が声をあげて鬼を追う。方相氏
は大舎人(おおとねり)がつとめ、また殿上人は御殿から、モモの弓、アシの矢で鬼を射
て、鬼は走りまわって逃げ去る。この行事が除夜に行われのは、日本古来の大祓い(おお
はらい)の観念と結びついたからである。追儺は平安時代には定まった行事となったが、
その後は文献にあっても実際には早くすたれてしまった。しかし、諸国の神寺仏閣では現
に追儺鬼追の式を伝えるところがある。神社の節分祭にこの除災招福の作法を行うのは江
戸時代以降の新しい習わしで、民間の豆をうちあてて鬼を追う節分習俗と古式追儺が習合
して復興したものと思われる。また寺院でも新春の行法に伴って営む所もあり、中でも法
隆寺と薬師寺の鬼追式が名高い。法隆寺西円堂では2月1日から行われる修二月会の結願
(けちがん)の後の法楽として、3日の夜行われる。僧が堂内で鐘・太鼓を打ち鳴らすこ
と7遍、斧を持った黒鬼・鉄棒を持った赤鬼・剣をもった青鬼が順次登場して手にした松
明(たいまつ)を堂外の参詣の群衆に投げつける。ついで、矛を持った毘沙門天(びしゃ
もんてん)が表れて、これを追う。いずれも仮面をかぶり、古い装束をつけている。黒鬼
は父、赤鬼は母、青鬼は子であるという。大和(やまと)薬師寺の花会式の結願の鬼追式
は4月5日に行われていた。                           
          秋田 成明 平山 敏治郎 大森 志郎            

ShoukaSon-Jyuku
■もどる inserted by FC2 system inserted by FC2 system