91/08/26 01:08:55 くろ   八幡神に関する考察 By TAKEBAYASI
 
竹林氏による生雲地区一園二校教育講演会からのメモと資料を参考にして
以下の文章を作成しました。M.MIHATA
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   演題 「歴史を越えて」
    副題  生雲の八幡様と銅
 
 1 東大寺と八幡神と銅
   ・八幡神の誕生秘話
     資料 生雲・嘉年の八幡宮縁起より
     化生(母親や父親から生まれずに自然の中から生まれたもの)
     八幡神は人間が神格化したものと考えられる。
      父親 仲哀天皇  母親 神功皇后 となっている。
 
   時代 三韓征伐
      仲哀天皇は下関で亡くなられる。神功皇后が代理として征伐に
      対島付近で産気づかれるが、船にある幟(旗)を4つ折りにして
      腹に巻かれ、皇子の誕生を遅らす。
      (これが腹帯の由来となる)
      余談・・・腹帯は木綿が普通となっているが昔は高貴な方は絹で
           あった。
           もちろん「ふんどし」も絹を使用したという記録がある。
   
      無事に戦いも終了し、現在の宇佐(九州)の地で腹帯を解かれて
      皇子を出産。後の応神天皇である。
      この時に白旗が4枚、赤旗4枚計8枚天より降りてきたことにより
      八幡様とも呼ばれることになった。
      応神天皇は、この地に祭られ宇佐八幡宮が出来たと考えられる。
      この天皇は九州を平定しこの地に勢力を張る。
 
      宇佐は当時の交通の要衝であったと考えられる。大陸から技術者集
      団が渡来してきたことから、鉱業・航海神・生産神の性格が加味さ
      れていったと思われる。
 
      八幡神の性格の変遷
       (第一期)宇佐宮成立期  鉱業神として
       (第二期)国家成立期   主に航海神として
         ここに八幡神として関わってくる
        嘉年居坂  森山八幡宮の創始 (817年)
        嘉年吉部野 大栄山八幡宮の創始(901年から22年)
       (第三期)鎌倉から室町
         源氏の氏神として祭られた関係から武神としての性格が強ま
         ったと考えられる。
        生雲八幡宮(1349年)
 
 2 八幡神と東大寺の関わり
    大仏の建立時に接触があったと考えられる。
    大仏の建立には金が必要であったが、この時期には金の生産がなかった。
    このために聖武天皇が八幡神に、唐に頼むべきか尋ねたところ、御神託が
    あり、金をつかわすとあった。この神託どおり金が奥州より献上され大仏
    も無事に完成した。
 
    裏話としては
    都の遷都に関して藤原仲麻呂派(紫香楽)と橘諸兄派(難波)との勢力争い
    があり、勢力拡大のために橘派が大仏建立のために奥州から金を発掘。
    その情報を察知した藤原派は宇佐の八幡宮から御神託があったと称する。
    この結果、橘派の努力の成果は八幡神によることになる。
 
    さらに御神託「東大寺の守護神となる」があり、東大寺近くの手向山に祭ら
    れる。
 
    裏話として・・・この時にお礼として金が八幡宮に寄進されたが、これから
            八幡様の像は金で作られているという伝承がある。
            
 
 3 生雲の銅と東大寺
 
    資料 須の原の厳島神社の縁起として生雲の銅が掘られ長府で精錬されて
       東大寺に送られたという。
       現在はこの神社の存在は不明である。
 
       生雲の銅山の最盛期は、806年から1489年
       東大寺の大仏は719年にはほぼ完成している。時代にずれがあるが
       おそらく戦災で破損した部分の補修に使われたのではないだろうか。
       詳しい資料の発掘等を期待したい。
 
       銅のお礼として宮中からくだされたのは、昆布とスルメ
       以後、祭りの際には昆布とスルメで酒を酌み交わすことに?
 
 4 八幡神の像から
    現存する画像は、地蔵と同じ形式となっている。
    特徴としては 袈裟をかけている点
           錫杖を右手に持っていること
           蓮台に乗っていること
    しかしながら、頭の後ろに太陽が描かれ、これが神であることを表している。
 
 5 生雲山八幡宮について
    毛利の時代になった時に生雲八幡宮に質問状があった。
    「他の八幡宮には山号があるが・・・ここにはなぜないのか」
    「不詳。ただ山号は寺につけられるものであると」等の問答が交わされている
    こと。
    江戸時代に出された風土記には生雲山八幡宮となっていることから
 
   もともとは、単に八幡宮と称したようである。
   記録に残る設立時期としては1349年。これから篠目にある細野神社が
   1560年に出来た。(社伝より)
 
   それ以前の記録については不詳。
 
 
25  6 91/08/30 00:47 ジグムント  3 八幡神>楽しく読ませていただきました
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91/08/30 00:47:03 ジグムント 八幡神>楽しく読ませていただきました
 
公演の記録を楽しく読ませていただきました。
私はこういった郷土史に関するお話というのは大好きなんで、非常に興味深く読ませて
いただきました。特に次の点について、感想と疑問を挙げてみました。
 
1.竹林氏というのはどなたなのでしょう?
  お話の様子から生雲八幡宮の関係者のようですね。
  
2.お話の由来は生雲・嘉年の八幡宮縁起によるそうですが、「古事記」の記載と
  相違するところが多々あって非常に面白いですね。
  たとえば、
  ・仲哀天皇は古事記によると筑紫(現在の福岡県)の橿日宮または訶志比宮で亡く
   なったことになっています。今は香椎と呼ばれる地名がそこにあたります。
  ・産気づいた神功皇后が遠征中に懐妊した子が生まれぬようにと腹に巻いたのは
   小石。帰還後、筑紫の国で出産し、その地を宇美と言います。腹にまいた石は
   筑紫の国の伊斗にあると言われています。
   この話にはいろいろ異説があり、その一つに下関市で出産したというのもあり
   ます。安産だったためその地を安岡と名付けたというものです。
  ・宇佐で出産したというのはまったくの初耳です。確かに宇佐八幡宮は6世紀の
   なかごろ、大神比義に宣託して「我は誉田天皇広帯麿呂(応神天皇)で、護国
   霊験威力神通大自在王菩薩である」と述べ、以後八幡宮として奉られています。
   神功皇后の産んだ皇子が応神天皇になりますから関係はありそうです。
  ・なお、福岡県の宇美八幡宮には、「応神天皇御降誕地」という巨大な石碑が建っ
   ている点も興味深いですね。やはり八幡宮と応神天皇はとても深い関係がありそ
   うです。
  ・なお、宇佐をはじめとする九州の東部・豊前地方は6世紀ごろから朝廷にかかわ
   る仏教者が派遣されており8世紀ごろは農民を移住させ(続日本記)豊前地方の
   支配を強めようとしていました。これは、豊前以南には隼人と呼ばれる反朝廷勢
   力が依然強い力を持っており、何度も反乱を繰り返し手を焼いたためです。宇佐
   八幡宮はその朝廷に「まつろわぬものども」を鎮圧するための拠点だったところ
   で、特に古事記が書かれた8世紀初頭(712年頃)は非常に大規模な反乱が起
   きていました。当時このあたり一体は、国東の摩崖仏でも知られるように、シャ
   ーマニズムの影響を色濃く残した仏教が勢力を持っており、仏教の信仰と神教と
   をうまく合体させる必要があったのではないでしょうか。
  ・また、このころの時代背景として、全国に国分寺がつくられた(741年)のと
   奈良の大仏の完成(752年)のちょうど中間に、応神天皇による神託があった
   というのも興味深いですね。ただ、この神託は後に宇佐八幡宮の神官が中央の政
   治に取り入ろうとした策略だったことが露見して処罰されています。そのため、
   一旦奉った神殿と取り壊すわけにはいかずそのまま継続して祭司しているようで
   す。
  ・宇佐は交通の要所であったことは間違いありません。神武天皇が日向から東遷す
   る際にもまず宇佐に立ち寄っています。また、宇佐は耶馬台国比定地の有力候補
   一つであり、八幡宮の鎮座する小椋山こそ卑弥呼の墓(古墳)であるとする意見
   が強いところです。神功皇后は卑弥呼をモデルにしているのは確実で、神武東遷
   神話も実は応神天皇の東遷をモデルにしているともいわれています。
   栗山周一という人の「耶馬台国東遷説」によると当時の天皇の在位年数は推定で
   1代10年といわれ、それを実在が確認されている用明天皇(586年ころ)か
   ら逆算するならば、アマテラスのころがちょうど卑弥呼が実在した230年ころ
   と一致し、アマテラス=卑弥呼=神功皇后ということも考えられます。
 
あ、それから腹帯と神功皇后との関係ですが、古事記によると神功皇后はその名を
息長帯比売(おきながたらしひめ)といったことによるというのも一節です。
各地の縁起や社伝には古事記とちがう面白い記載があって、どれもとても興味深いですね。
 
  ジグムント

ShoukaSon-Jyuku
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