野山獄と片倉獄

「吉田松陰の後半生は、萩の野山獄において、その荘厳な幕を揚げた。」
 山岡荘八「吉田松陰」の中の「至誠の格闘」第5章の書き出しの文章です。
 当時24才であった松陰は、2度目の来航で日本を訪れたたぺりーに頼み込み、アメリカ密航を試みたがこれに失敗し、自ら幕府に自首、江戸天馬町の牢獄につながれやがて萩に送還されます。

 萩では、本来は「在所蟄居」としてわが家に謹慎蟄居していればよいのですが毛利藩では幕府への遠慮から松陰を野山獄へ入牢させています。

この野山獄は片倉獄と向かい合わせにあり、松陰は士分ゆえに野山獄に、金子重之助は身分が低いことから野山獄となったことはさだきち先生の記されているとおりです。

この過剰とも思われる毛利藩の処遇は、山岡荘八が書いているように「−−−家が手狭で、置くところがないから、野山獄の一室を借用したいという願書を差し出すように」と父百合之助に命じたように、毛利藩の過剰反応の結果であるといえます。

 幕末の激動期に尊皇攘夷を旗印に倒幕の先頭を切った毛利藩とは思えない対応ですが、この当時の毛利藩は、実に優柔不断。幕府の顔色を伺う一外様に過ぎませんでした。

 このことを如実に物語る参考資料として、時代はかなりさか登りますが、元禄時代の「赤穂浪人預り記」にある赤穂浪士に対する毛利藩の対応があげられます。

 忠臣蔵でおなじみの赤穂浪士たちが泉岳寺にひきあげて、次の各家にお預けになりました。

 毛利綱元  10人
 細川綱利  17人
 松平定直  10人
 水野忠之   9人

 明治44年発行の「元禄快挙録」には、引き取りに言った毛利藩の老臣田代要人が、にわかのことにて篭に錠を準備する暇もなかったので細引きで縛って連れていってよいか、と申し出たのを、幕府の役人は物事を解していないと判断したようで、錠前はもちろん縄もかける必要はないと断っています。このことは赤穂浪士に対する異常なまでの同情の高まりの中で、江戸の人々に不評をかったのは言うまでもありません。

 しかし、毛利藩はあくまで浪士を罪人として扱い、はさみや毛抜きの差し入れからタバコや扇の所望までいちいち幕府にお伺いを立て、狭い長屋に押し込め、雪隠までも室内にさせる有り様で、屋敷内の大広間で豪華な食事を提供した細川藩とはまったく対象的でした。

「野山獄」という言葉から、私は以前長いこと萩市の山側を頭の中にイメージしておりました。しかし、今年の正月、この野山獄跡を訪れる機会があり、見事にそのイメージを覆されてしましました。
 野山獄は、山口から行きますと萩の三角州にはいる松本橋をわたって国道262号線を北に走り、ずっとずっと突き進んで、古萩町というところの萩グランドホテルのある四つ角を左に折れた最初の交差点をもう一度左に折れた、小さな路地をわずかに入ったところにあります。言ってみれば市街地の北より、萩グランドホテルから熊谷美術館に通じる道のすぐ近くにあるわけです。海までの距離は直線にして数百メートル。その小さな路地の両側に、向かい合わせるように細長い石の石碑が立っておりました。恐らくそのつもりでさがさなかればうっかり見過ごしてしまいそうなその石碑(事実私は一度その前を気がつかずに素通りしてしまいました)は実にシンプルな感じがしました。

 当時12の独房があり11人の囚人が居たといわれているにしては、現代に残されている敷地はあまりにも小さすぎる感じがします。

 野山獄と片倉獄が向かい合っているわけ
 私はどうもいつも他の人とは違った変なところに興味を持ってしまうクセがあるようで、松陰と金子重輔が牢獄に入れられたことについて、ちょっと変わったことに興味を覚えました。以下は、さだきち先生のMSGからの抜粋です。

 安政元年(1854)十月二十四日、ふたりは萩につきました。武士であった。松陰は野山獄に、身分の低かった重輔は岩倉獄に入ることになりました。下田での海外渡航以来、常に行動を共にして来たふたりは、この時の別れが最後となりました。
 野山獄と岩倉獄とは、道路をへだって向かい合っていたので、松陰は人にたのんで、重輔の病状を聞いたり、詩や手紙を届けてはげましたりしました。しかし、そのかいもなく、安政二年一月十一日、重輔はわずか二十五才の若さで入獄のまま死んでいきました。


 もともと萩の町は、1600年関ヶ原の闘いで120万石から防長36万石に減封されたとき山口の町に藩の中心を置くことを幕府に願い出たが許されす、この地に城を築いたものです。本来これほどの減封となると、家臣団も人数を減らすものですが、藩主毛利輝元の人柄によるためかほとんどの家臣がそのまま萩とその周辺に住み着きました。その結果、萩の町は他の都市に例を見ないほど細かく区画され、一軒一軒の武士の屋敷は当時の格式に対する考え方よりもずっと小さなものになりました。

 それなのに、その萩の城に通じるメインストリートとも言うべきあの場所に、「道路をへだって向かい合っていた」のかが不思議な感じがしたのです。細かいことにこだわっているようですが、歴史というのはこのような細かいことに興味を持って調べていくと意外な事実がわかってきて、面白味が増してくるものでもあります。

 前置きが長くなりましたが、いろいろ調べておりますと、古川 薫という人の本にこのような一節が見つかりました。

「天保2年(1831)9月17日の夜、藩士野山清右衛門の屋敷へ、日頃彼と仲の悪かった同じ藩士でしかも向かい合わせに住んでいたいた岩倉弥兵衛が、酔って押しかけ野山を切り殺すという事件があった。結局、喧嘩両成敗で岩倉には切腹が命ぜられ、両家は断絶となった。双方の屋敷は、牢獄に改造され、岩倉の方は町人小者たちを収納する下牢、野山の屋敷は士分を対象とする上牢として使用された。」

文久2年(1862)から明治2年にいたる激動期に、争乱に巻き込まれて死んだ藩士のうち、戦死や自決したものを除いて21人が野山獄で刑死しています。元冶元年の攘夷戦の後、蛤御門の変で出陣した宍戸左馬之介ら4人の参謀が斬首されたのをはじめ、政権交代後は椋梨藤太らの首脳部の武士が切られたのもこの野山獄でした。

 この野山獄は、松陰の教育者としての新しい出発点あったと同時に、維新のふるさと−長州の激動を映し出す鏡であったとも言えます。

Awaya(90/04/12)

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