至誠留魂の人 吉田松陰(2)


 松陰の真骨頂とは?を端的に表している文です。打ちかえましたので、誤字の訂正をよろしくお願いいたします。橋本左内との議論を望んだ文の最後に、「ああ」という表現がありましたが胸に響く気がします。中国新聞のシリーズになっています。

 獄中にあって同囚の人々と心を交わせる松陰の姿勢はすでに野山獄において見られたところであるが、伝馬町の獄においても、また松陰は多くの同囚に心を寄せ、その人々の美点をとらえて己の糧とするのである。
 いかなる逆境にあっても己を磨くことを怠らぬ松陰の真骨頂がそこにある。

 しかし、いかに優れた人物を見出したとしても、松陰の生命はもはや限られている。そうした志士達と交わる時間もない。

 そのため、松陰は「吾が同志たらん者願わくは交を結べかし」と、その新しく知った人々を同志に告げ、交流をうながすのである。それも第十三章に「余徒(いたず)らに書するに非ず。天下の事を成すは天下有志と志を通ずるに非ざれば得ず。而うして右数人、余、この回新たに得る所の人なるを以て、是を同志に告示するなり」と書いているように、松陰はこの時点で、より大いなる連帯の必要性を痛感していたからである。

 松陰は第九章から第十三章に及んで新たに得るところの人としてあげている人物は、水戸の郷士・堀江克之助、水戸藩士・鮎沢伊太夫・鷹司家の諸太夫・小林民部、江戸の医者山口三■(ゆう)・高松藩士・長谷川宗右衛門・江戸の人・勝野豊作(正道)・保三郎父子などで、それぞれに松陰の心をとらえた言動が紹介されている。例えば長谷川宗右衛門の場合など〔■は 車酋 という字〕

「余、初めて長谷川翁を一見せしとき、獄史左右に林立す、法、雙語を交ふる(囚人同士が言葉を交わすこと)ことを得ず。翁独語するものの如くして日く。『寧ろ玉となりて砕くるとも、瓦になりて全かることなかれ』と。吾れ甚だ其の意に感ず。同志其れ之れを察せよ」

 といった風である。

 ちなみに、この長谷川宗右衛門が言った「寧ろ玉となりて・・・」の言葉は、後に高杉晋作が元治元年(1864年)の一月初め、某あてに書いた手紙の中の「君の為めつくす心は玉となしたく、我が身は瓦なりけり」の句にもつながるものではなかろうか。高杉の心の中に、師、松陰が留魂録に託した魂が生き続けていたのである。

 さらに、松陰は第十四章において、すでに十月七日に処刑された橋本左内(越前福井藩の藩医で洋楽にも通じ、当時、諸藩の志士の中でも異彩を放つ存在であった)のことにふれ、同囚の勝野保三郎(伝馬町獄舎で左内で同室であったことがある)から、左内の話を聞くにつけても一度も会うことがなかったことを残念がって次のように書いている。  

「左内幽囚人邸居中、資治通鑑(中国周の歴代郡臣の事跡を編年体で編集した史書)を読み、註をつくり漢記(漢の高祖から、王莽にいたる二百四十年間のことを述べた史書)を終わる。(三十巻を読破する)。又獄中数学工作の事を論ぜし由、勝保(勝野保三郎)予が為めに是を語る。獄の論大に吾が意を得たり。予、ますます左内を起こして(生きかえらせて)一議を発せん(議論をする)ことを思う。嗟夫(ああ)」

 橋本左内もまた安政の大獄の嵐(あらし)に二十六歳という若い生命を奪い去られたのである。

 松陰は、このように新知の人々を同志に伝えると同時に、村塾のことや自分の門弟たち、さらには僧・月性や口羽徳祐など長州藩における有為な人物のことを同囚の人々に伝え残しているのである。
 清水唯夫・長府博物館長

(中国新聞 1991年 1/9)
M.M(91/01/24)

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