論語の話

06:13:37 YAMAZAKI 論語の話(1)
 学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや。朋あり遠方より来たる。 また楽しからずや。人知らずしてうらみず、また君子ならずや。」

 知識を学び、随時それを実戦に移す。何と楽しいことか。友人が遠くから訪ねて来る。これまた何と楽しいことか。人に認められようが認められまいが、少しも気にかけない。これが本当の君子じゃないかね。

 これは、論語の冒頭の言葉です。みなさんよくご存知だと思います。いくら勉強しても、その勉強が自分自身の行いに反映しなければ何の意味もないですよね。そして、いろいろなことを語り合える友がいること、これも大切です。最後の「人知らずしてうらみず、また君子ならずや。」これ大切ですね。どうも自分の知識をひけらかして、いばっている人多いものね。特に、先生って呼ばれている人たちには。「能ある鷹は爪を隠す」っていいますからね。よく気をつけましょう。


 「その人となりや、孝悌にして上を犯すを好むものすくなし。上を犯すを好ま ずして乱をなすを好むもの、いまだこれあらず。君子はもとをつとむ。もと 立ちて道生ず。孝悌はそれ仁のもとたるか。」

 親孝行で兄弟仲のよい人間が、上司にさからうことはきわめてまれだ。上司にさからわない人間なら、秩序を乱すこともない。君子は根本を大事にする。根本が定まれば、道理もそれにつれて生まれる。親孝行で兄弟仲のよいこと、この二つは仁の根本と言える。

 確かに、上司にさからうことは、仕事場を乱しことが運ばないのが現実ですね。自分自身にとってもプラスには、ならないと思います。徳のある上司ならさからうことなく、仕えますがね。どうも。わがままばかり言って、下の者のことを思いやってくださる上司の方が少ないような気がします。僕だけでしょうか、こんなことを思っているのは、ぼく自身の甘えかもしれませんが。

 まだ若いから、こんなことも言えますが、年をとったら下の者から、尊敬される人間になりたいものです。
 論語の中で、孔子が、人間が生きていくために大切な心や行いの柱として、

仁、義、礼、智、信、忠、孝、悌

の言葉を掲げています。それぞれ、どうとらえるのか難しいですね。ちょっと八つの言葉を調べてみました。
仁・・・いつくしみ、あわれみ、おもいやり、なさけ、めぐみ、人間の根本の道、徳の高い人、人の心
義・・・事の処置が適切なこと、正しい道筋、人として行わなければならない道、国家や公共のためにつくす心、弱いものを救ってやる心
礼・・・人と交わるのにふみ行うべき道、敬意を表す行為、うやまう、敬意を表しておじぎをする、法律、制度
智・・・ちえ、頭のはたらき、かしこい人
信・・・まこと、真実、誠実、証明
忠・・・まごころ、まこと、まことをつくす、まごころをもってつかえること、誠意をもって行う
孝・・・よく父母につかえること、よく先祖につかえること
悌・・・すなお、目上の者に心からつかること、やすらかなさま

 なかなか難しいですね。ただ現代の子どもにも大人にも言えることだと思うのですが、人間が生きていくための心の柱というものが、すたれているような気がしてならないのは、わたしだけでしょうか。戦争が終わって、日本は新しい民主主義の国になりました。そして、戦前の教育や考え方は、誤りであったとされましたが、よいものもみんな捨ててしまったような気がします。確かにおかしいこともたくさんありました。
 現代の社会は、自分自分が自分に都合のよいことばかりを主張する、欲望民主主義のような気がします。
 「衣食足って礼節を知る」といいます。昔は、日本の国は貧しい国でした。しかし、これだけ豊かな国になりました。「おかあちゃん、はらへったよう」なんて言う子はいませんし、最近は乞食なんてのもとんと見なくなりました。だからこそ礼節を知らねばならない。子どもには、教えなければいけない。だから、これだけ教育が盛んになってきているのです。

 だけど、今の教育は智に偏った教育が盛んです。頭ばかりを育てて、心を育てる教育はあまりさかんじゃない。これじゃいけませんよ。確かに、現在までは、ベビーブームで子どもが多くて、受験戦争もすごかった、しかし、これから十年先までは、子どもも減ってきて、受験戦争もなくなっていかねばならない。そしたら、頭を育てるんじゃなくて、心を育てることを親も先生もやっていかなければいけない。子どもの心を育てるためには、親や先生自身の心が育っていなくちゃね。そう思います。


「吾れ日に、吾が身を、三省す。人の為に忠ならざるか。朋友と交わりて、信ならざるか。習わざるを伝えしか。」
 わたしは、毎日、三つの事を反省する。友人の相談事をいい加減に聞き流すことはなかったか。友人のつきあいで不誠実ではなかったか。先生から教わったことをきちんと復習したか。

 現代ほど反省ということを、日々している人はいないと思うのですが、どうでしょうか。日々自分自身をふりかえってみることは、とても大切です。人間ですから、なかなかできませんね。きびしいね。

 ただ気をつけなければいけないことは、反省をして、できなかった、いたらなかったということで、自分に罰を与える方向にいかないようにするということです。昨日、今日はあのことをきちんとしようと心に決めたのに、やらなかった、自分はなんてなさけない人間だ、なんてね。心をマイナスにしてしまいがちです。反省をたくさんするとね。ここに、気をつけないと、マイナス思考におちいってしまいます。

 失敗したっていいじゃないか人間だもの、で行きましょう。反省をしなくなると、逆に安きに流れてしまいますからね、こんどは、このへんのつりあいが難しい。

 学校なんかで、よくやるんですね。終わりの会なんかで、今日の目標なんてのを毎日決めて、反省するんですが。守れなかったら、廊下を三往復ふくなんて、罰まで考えちゃって、わたしは、罰は嫌いです。罰があるから守らなければいけないようになっちゃいますから、そうじゃなくてね。たとえば、「廊下を走らない」という目標を決めたらね。なぜ廊下を走っちゃいけないのか、なぜ守れなかったのか、それを考えることの方が大切ですものね。

 だから、こどもにいいます。廊下を走ったら、ぶつかったりして、けがをしたらたいへんだから、走っちゃいけないんだよ。走りたいのはわかります。子どもだからね。子どもが学校で騒がなくなったら、こりゃ大変なことですよ。だけど、時と場所を考えなくちゃ。こどもには、「走りたいのなら、運動場に行きなさい。」と言ってやります。


「弟子入りては則ち孝、出でては則ち悌、謹みて信、ひろく衆を愛して仁に親しむ。行いて余力あらば、以て文を学ぶ。」

 学生たる者、家では親によく仕え、外では目上の人を敬い、慎重に行動し、誠実に話して、誰ともわけへだてなく付き合い、徳をそなえた人物に近づくようにせよ。こうした努力を重ねた上で、もし余力があったなら、それを読書にふりむけることだ。

 徳をそなえた人物になりたいものですね。先生として。そのためには、徳をそなえた人を出会いたいものです。人間には、三つの出会いが大切だと言われています。一つ目は、自分の人生の師となる人との出会い。二つ目は、心をわって話せる友との出会い。三つ目は、人生の目標を暗示する書との出会いです。
 これは、年齢とか時代を越えたものであってよいと思います。また、二十代三十代、四十代で、移り変わっていくような気もします。


Yamasaki(90/04/02)

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