92/02/06 23:15:57 ジグムント 
宇部のU−Portにある歴史BDにでていたARAKIさんの        
「岩邑年代記」の資料です。
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90/12/25 01:30:35 ARAKI  岩邑年代記 その1
 
 岩国の実家に帰ると、親父さんとお袋さんが、古文書のコピーを見て、うんうん
うなっていました。なんでも、古文書を解読するサークルに入ったらしく、この年
になって、宿題をやらんといけん とこぼしていました。なんで、またこんなことを
ときくと、ご先祖様探しのための様子です。
 
 草書のみみず字は、私には、読めるわけがないのですが、みみず字を活字におこ
した本があって、それが、「岩邑年代記」 だったのです。
 
 これなら、私にも読めるので、ぱらぱらめくったところ、意外にもおもしろいの
ですよ、これが・・・・。
 こういう資料をねたにして歴史を習っていたら、よかったのに、と思いました。
 
 
 さて、岩邑年代記は、岩国邑の歴史を記したもので、記録者が、岩国藩の藩士で
あるので、岩国藩年代記といってもよい内容です。
 
 慶長5年(1600年)から幕末ぐらいまでの記録があり、私が、読んだのは、
最初から100年ぐらいまででしょうか?
 
 当時の風俗、天変地異、など まるで 新聞の3面記事を読んでいるようでした。
 もちろん、皇室記事に相当するのが、お殿様一族の動静についての記録であるわけ
です。
                                 araki
90/12/25 01:32:14 ARAKI  岩邑年代記 その2
 
 はてさて、内容のご紹介です。
 
まずは、交通事情から・・・
 
 当時、岩国から萩まで何日かかっていたと思いますか?
 
 萩まで、お篭で、片道4日から5日かかっているようです。どういうルートを
通っていったんでしょうか?
 
 その一方、山口の湯田まで、船で1日で到着しています。
 この場合は、岩国側は、錦帯橋の下流から 出発したと思いますが、
到着したのは、三田尻でしょうか? そうだとすると、三田尻から湯田までは、
往還が、あったのかな?
いったん、小郡あたりまでいってから、川をぞいにあるいていったのでしょうか?
 それとも、ふしの川は、当時は、船で遡れたのでしょうか?
 そのへんは、素人には、わかりませんが・・・・
 
 どうして、湯田までの 行き来のはなしがでているかというと、岩国の
 殿様一族は、ぜいたくにも、湯田から温泉のお湯を取り寄せていたようです。
 
 今も昔も、運が悪い人が、いたようで、船が難破して何十人もの人がなくなったと
いう記録もあります。
 
                                 araki
90/12/25 01:33:09 ARAKI  岩邑年代記 その3
 
ええと、天変地異のはなしでは、
 
 「諸国鳴動す。肥前桐島山崩れとも。」なんていう記事が、ありました。
 ご存知、肥後大変島原迷惑(だったけ?)のお話でしょうか。
 えっ なに、ご存知ない!??
 
 「某日夜 光りもの。諸国同前。」なんてのが、ありました。
 これなんか、すなおに考えれば、流れ星の大火球が、落ちてきたお話でしょうけど
 
 もしかして、当時、「UFO」が、日本にやってきていた! なんて考えることも
 できるのではないでしょうか? この手の記録は、ふたつほどありまして、読み込
 めば、もっと見つかりそうです。
 
 「日色終日赤し」ていうのは、日食のことかな? それとも、火山の噴火なんかで
 そらが、薄暗くなったせいかしらん? なんぞ と想像してみました。
 
                                 araki
90/12/25 01:33:55 ARAKI  岩邑年代記 その4
 
社会的事件では、
 
 島原の乱の勃発から、天草四朗がついに死んだことや、由比正雪の乱、丸橋忠やが
とらえられたことなどが、記されていました。
 もちろん、忠臣蔵も、「吉良上野介、殿中にて浅野匠のかみに殺害。・・・」と 
ばっちり、記されています。
 
                                 araki
90/12/25 01:52:46 ARAKI  岩邑年代記 その5
 
世俗的なお話では、
 
 「境界あらそいで、双方が逼塞を申しつけられた」とか、
                          これは、毎度のことですね。
 
 「どこやらお寺のおしょうさんが、女3人と色肉の法を犯し、女犯の罪を白状したの
で追放した」とか・・・。 うーむ いまも 昔も 生臭坊主が いるわけですな。
 
 「なんのだれべえが、妹と逐でん」てのも あり、人の倫ならぬ恋 は、昔もあっ
たようです。 
 
「象さんが、やってきたので、藩主のおっかさん?が、おしのびで見物に出かけた。」
 
 なんていうのが、ありました。当時でも、象さんが、いたんですねえ。
 山陽道を、ゆっくりあるいて、江戸まで、いったのでしょうか?
 何日かかったことやら??大阪で見せ物になった可能性もありますね。
 大阪から船便で、江戸へいったっていうこともありえるし・・??
 ・・・と想像は、広がるのであります。
 
 江戸で お犬様の詮議が、激しいので、国元え引き取る。というのもあります。
 (ここの解釈は、嘘かもしれない!なんせ 素人が読んでいるもんで・・)
 
 犬将軍様の時代の はなし らしいですね。これは・・・
 
ファッション関係では、
 
 足軽の合羽は、赤色と決まっておったのに、近ごろ青色の合羽を着用しおるのは
けしからん!というわけで 以後、赤色合羽を着用すべし!!と 青色合羽着用禁止令
がでています。
 
 これなんか、全国津々浦々で、話題の「校則」のお話みたいで、笑ってしまいます。
 
 
 こうしてみると、今も昔も 同じ物語りが、語られているわけですね。
 
                                    araki
90/12/25 01:35:43 ARAKI  岩邑年代記 その6
 
当時の社会・制度を物語るものとしては、
 
 「島原天草に百姓を差し出すべし」 なんて、記録があります。
 これは、きりしたんの信者が、おおぜい殺されたので、田圃をたがやすお百姓さん
が、いなくなっちゃったわけですね。かわりに、耕す百姓をよこすべしと いうこと
のようです。如何に、当時の 幕府が、キリシタンを弾圧したか、がわかります。
 
 あとは、当時でも 国勢調査をやっていたようで、どこそこ地方は、何人、人口が
あり、うち男何人・女何人 なんぞと記されています。
 これは、公儀に届け出ていたようです。
 これほど正確に人口が把握されていたのは、当時は、世界でも日本だけだったという
ことが、こんな記録からもわかりますね。
 
 そんな記録のなかに、「えた非人ごぜは外」なんて記述があり、はっと胸を衝かれ
ます。つまり、人口統計のなかには、えた非人は含まれないよ。といっているわけです。 当時の社会制度の過酷さを物語るものです・・・・。
 
 あとは、「阿蘭陀人通行」 とか 「朝鮮人 来朝」なぞというのが 結構あり
また、「イギリス船が、先年来たとき・・」 とか 「南京船がやってきたので、
打ち払った・・・」とか 当時は、鎖国だったにせよ、けっこう 外国人が 来て
いたのだとわかります。 
 
 
 
    ジグムント

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