91/11/05 00:54:33 ジグムント 奇兵隊の脱退騒動にかんする資料です(1)
明治元年正月から3年までの山口県のおもな出来事です。これを見ると、新政府にとっ
て山口県はまるで新しい政治のための実験場のようです。脱退騒動は明治維新がスムー
ズに進行するためのひな型のような気がしてなりません。
 
明治元年 正月 3日  徳川慶喜兵を率いて京都に入らんとす。
            長藩諸藩これを鳥羽・伏見に破る。
        9日  長兵備後福山城を攻略す。
        9日  長兵大阪城にはいる。
       12日  第五大隊山口を出発上京す。
       17日  第四大隊、第六大隊山口を出発す。
     2月17日  松下村塾、特に明倫館外の私塾として、再興を許可す。
     2月22日  大村益次郎軍防事務局判事加勢を命ぜられ、大阪に赴く。
     2月28日  長府藩、仲哀天皇御陵・安徳天皇御廟を修理す。
     3月12日  岩国領主吉川経幹、藩屏に列せられ、岩国藩成立す。
     3月17日  奇兵隊上京のため赤間関を出帆す。
     4月14日  長藩北越出兵の朝命を拝す。19日長府藩また拝命。
    閏4月28日  奥羽征討軍参謀世良修蔵会津にて暗殺される。
     5月12日  敬親朝命を奉じ山口を出発して上京。
     5月13日  奇兵隊参謀時山直八越後長岡に戦死す。
     5月19日  官軍越後長岡城を攻略す。
     6月 9日  岩国藩主、吉川経幹を城主格となす。
     6月14日  岩国藩、越後出兵の命を奉ず。
     9月15日  仙台藩降伏す。
     9月22日  会津落城。庄内藩も降伏す。
    11月 3日  朝旨を奉じ、藩治職制を改革し、政治堂を議制・施設・会計
            ・民政・軍政・社寺・学校・聴訴・撫育・好生・監察の十一
            局に分ち、かつ外局として物産局を特設す。
    11月 4日  明倫館を文学・兵学の2寮に分ち、小学舎・成器塾・郷学舎
            を文学寮に、歩騎砲三兵塾を兵学寮に付属せしむ。
    11月10日  萩城解除を命じ、蔵元内の諸役所を萩明倫館内に移す。
    11月12日  北越出兵の奇兵隊山口に凱旋す。
    11月16日  北越出征の干城隊山口に凱旋す。
    12月 1日  第一大隊、第四大隊の一部関東より、翌日第1半砲隊北越よ
            りそれぞれ山口に帰陣
 
    12月 7日  第一大隊奥州より山口に凱旋す。
    12月25日  鋭武隊奥州より山口に凱旋す。
明治2年 正月 2日  奥州に出兵せし第四大隊山口に凱旋、翌日帰萩す。
    また、関東より第一・第二大隊も同日帰萩す。
     正月12日  山口に凱旋す。
            薩長土肥四藩主、連署して犯跡奉還を奏請す。
       20日  諸道の関門廃止令により藩内の関所を廃す。
     2月11日  勅使萬里小路通房、元徳と同道して山口に来り、敬親に王政
            復古の褒勅を授く。
     5月11日  官軍函館を攻略す。
     6月 4日  敬親隠居し元徳家督す。
     6月17日  版籍奉還聴許され、毛利元徳山口県知事を奉命す。
     6月20日  長府藩を豊浦藩と改称す。
     6月26日  毛利元敏を豊浦藩知事に、毛利元蕃を徳山蕃知事に、毛利元
            純を清末蕃知事に、吉川経健を岩国蕃知事にそれぞれ任ず。
    ※7月 8日  親政府は官制を改革。兵部大輔に大村益次郎を任じ、諸藩兵
            力の寄せ集めであった政府軍隊の整備を命じた。大村益次郎
            は、内戦で増大した有力諸藩の兵力を整理し、兵を国民から
            徴募して洋式訓練をおこない、親政府の軍隊を強化するため
            兵制の近代化をはかった。これは士族の反発を招き、三条木
            屋町の旅館で襲撃を受け、これがもとで死去した。この事件
            は山口藩における脱退騒動の勃発を暗示するものであった。
     7月27日  朝廷山口藩に命じ常備兵400人を徴す。
     9月 3日  山口藩主の居館御屋形の名称を山口蕃議事館と改称す。
     9月 4日  兵部大輔大村益次郎京都に遭難し、11月5日大阪病院にて
            死す。享年46歳
            版籍奉還により、公廨と家職を分離せしも、撫育局はその草
            創の主旨よりしていずれも属しがたきをもってこれを別局と
            しこの日柳村役所と改称せしむ。翌年夏、撫育書と改む。
    10月 4日  山口蕃人口戸数を朝廷に届出す。戸数115,768、人口
            506,8190。
    11月25日  元徳、常備軍二千人を御親兵となさんことを請う。朝廷これ
            を容れる。
            ※ 藩は従来の諸隊を解散し、40歳以上のものと身体虚弱
              のものを除く兵の精選をおこない、第一大隊から大四大
              隊までの常備軍を編成した。この対立をめぐって諸隊と
              藩軍事局との間にきびしい対立が生じた。
            ※ 諸隊改編の動きを察知した遊撃隊の「きょう導中」3人
              は、11月14日に連署して隊の長官と幹部の弾劾書を
              藩軍事局に提出した。この弾劾書は14ヶ条からなり、
              主なものは会計の不正や乱脈、賞罰の不公平、軍紀の弛
              緩、 戦死者鎮魂の不始末などであり、このような長官
              や幹部が兵の精選をおこなうことの弊害を指摘したもの
              であった。しかし藩軍事局は、弾劾書を無視して諸隊の
              改編と常備軍の精選を強行し、これに不満を表明した遊
              撃隊の全員をのぞいてしまった。
    11月27日  諸隊号を廃し、常備軍を編成。
    11月 晦日  常備軍の選に漏れし諸隊の不平の徒、山口を脱す。
明治3年 正月13日  脱退騒動に際し蕃知事元徳等連著の誓文を豊栄神社に納む。
            長藩の脱退兵、土民を指揮して大森県浜田宰判所を襲撃す。
       21日  脱退兵、山口蕃議事館を包囲す。
       26日  脱退兵さらに議事館を重囲す。
     2月 9日  常備軍および豊浦・徳山・清末・岩国蕃兵をもって脱退兵を
            討伐す。
     2月19日  脱退兵の賞典を没収し帰農商を命ず。
     2月29日  脱退宣撫使徳大寺実則山口に下着す。
     2月 晦日  脱退暴徒の領袖30人余を処罰す。
     4月20日  山口蕃議事館の名称を廃し山口蕃庁とと称す。この日、上・
            中・下士の等級を廃し、単に士族と称し順序は知行高によら
            しむる。
 
山口県文化史年表(昭和31年発行)の一部から抜粋したものと、※印は「山口県の百
年」(山川出版)から引用したものです。
脱退騒動の詳しい内容をいずれ改めてUPしたいと思います。
 
    
山口県の士族の反乱というと前原一誠の「萩の乱」が有名ですが、それ以前にもこのような出来事がありました。
 
               ジグムント

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