松下村塾の歴史
塾の歴史をまとめてみました。おおまかに、4つの時期に分けられるようです。
<資料は『山口県教育松陰特集号』・『吉田松陰の思想と生涯』(玖村敏雄)>
■ 第1の時期
松陰が少年時代に、叔父の玉木文之進が青年を家に集めて教育。この時に、松下村塾を名乗る。 意味・・「萩の松本村(まつもとむら)にあるからこれを支那風に表現すれば松の下ですから松下(まつもと)になり、音で読むと松下(しょうか)となる。松本村にある塾というわけであります。」 玖村敏雄
■ 第2の時期
玉木文之進が公務多忙のために、やめた後に、外叔父の久保五郎左衛門が経営していた寺子屋に松下村塾の名称を移す。
■ 第3の時期での成立過程
【安政二年】
●十二月十五日
松陰が許されて、野山獄から杉家へ帰る。
この日から、松陰は家囚(家での蟄居)として、三畳の部屋で寝起きすることになる。
●十二月十六日
家でくつろぐ。
●十二月十七日
晩に、父と外叔父、兄が集まって、松陰の講義を聞く。
なお、日を決めて、父と共に、経済要録・新論・弘道館記述義・柳氏新論を、兄とは、日本外史・宋名臣言行録・下学邇言を読む。
【安政三年】
●六月十二日
講義が終了する。この講義をまとめたものが『講孟余話』。
●八月
私塾としての体裁が整う。これが、松下村塾の始まりと言われている。
●九月
久保五郎左衛門に頼まれて、『松下村塾の記』という文章を書く。
●同秋頃、松下村塾は松陰のものとなる。
家族以外の者が入門を開始。
【安政五年】
●七月
藩によって松陰の教育が許可される。
●十一月
藩によって松下村塾における松陰の教育が禁じられる。
■第4の時期
一時期閉鎖されるが、久坂玄瑞・玉木文之進・兄によって継続される。
●明治二十五年
久坂玄瑞・玉木文之進・兄によって続けられた松下村塾も終わりを告げる。
現在は、吉田松陰ゆかりの地(松陰神社)に資料として公開されている。
M.M(90/06/02)
もどる