松陰先生よもやま話

獄中/吉田松陰の恋
 安政の大獄で処刑されたとき吉田松陰は数え年30で、むろん妻子はありませんでした。
 松陰は独身で、しかも童貞のまま世を去ったというのがこれまでの定説でありました。
 松陰は神にまつられ、とくに戦前(山口県では現在でも)は教育者の鏡とされていましたから、やはり“清童”であることが望ましいことだとされていたのでしょう。
 しかし、人間松陰を見るとき、彼が本当に童貞であったかどうかの根拠はまったくありません。松陰が人間的な恋愛をしたという証拠もありませんからその真相は薮の中ということになりますが、松陰の恋愛について次のような事実は残されています。

 吉田松陰が投獄された野山獄というところは、獄舎と言うより武家のやっかい者を預けるところといったニュアンスがあったところだったようです。(松陰自身も杉家謹慎の身分であるにもかかわらず、自らすすんで野山獄に入っている)

 その野山獄は12の独房があり、獄中での執筆はもちろん外にいる門弟たちとの手紙のやりとりも自由だったようです。そしてそこには、高須久という女囚がつながれており、当時松陰が発端となった句会において、

 一声をいかで忘れんほととぎす 松陰

 手のとはぬ雲にあふち(*)の咲く日かな  ひさ

(*)の「あふち」は何かの植物の名前だろうと思いますが勉強不足でわかりません。

と詠んだとされています。これはどうやら相聞の句の交換みたいで、松陰・久恋愛説もまんざらではないみたいですね。

 さらに高須久は、松陰が再び江戸に呼びだされ、野山獄を出るとき、松陰に汗ふきを送ったことを松陰自身が書き残し、歌を詠んでいます。

 (高須うしのせんべつとありて汗ふきをおくられければ)
 箱根山越すとき汗の出やせん君を思ひてふき清めてん   松陰

 万葉の時代から、「君を思ふ」と詠むことは日本では男のほのかな恋愛感情を示しているのはご存知のことと思います。
 さらに高須久は、松陰が野山獄から出る際(その後、再投獄される)には、

 鴨立ってあと淋しさの夜明けかな   

という句を残しており、これなどはまさに鴨(雄雌の仲のよい鳥)に託した女心と考えるのはなんとかの勘ぐりでしょうか。
 松陰の恋愛についてお話が出たついでに、松陰が童貞であったかどうかについて面白い論議があります。
嘉永6年(1853年)松陰は佐久間象山に別れ、ロシア艦に乗るべく東海道から長崎にむけて旅をしておりました。その途中、箱根八里の起終点三島の宿に泊まります。
 この時松陰の日記に、「初め国を出るとき先生(恩師山だ宇右衛門)贈るに、四条の戒(偸盗・邪淫・妄語・飲酒)をもってせらるる。今即ちその二つに背く、感慨に堪ゆるなし・・・」とあります。松陰が背いた二つとは、盗みはまず考えられず、松陰の性格からして妄語も無理があると思われます。そうすると残るは、「感慨に堪ゆるなし・・・・。」という言葉からも考えて淫と酒とするのが妥当ではないでしょうか。何事も実学を重んじる松陰が、旅の途中三島にて女と遊んだ・・・。と考えるのは、この程度のことで松陰の権威が傷つくこともないとと思いますが、いかがなものでしょうか。

Awaya
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