松陰至誠の生涯

生い立ち

 萩市松陰神社の右手から東光寺に向かうなだらかな坂道を上がると団子岩と呼ばれる高台に出る。指月山を背景に萩の町並みが眼科に展開し紺碧の日本海に浮かぶ六島の島々を一望に見渡せる絶景地である。

 今から160年前、天保元年(1830)八月四日、吉田松陰はここで萩藩士杉百合之助の二男に生まれ幼名を寅二郎といった。

 百合之助は禄高二十六石の下級藩士で、半士半農の貧しい暮らしをしていたが、実直勤勉で、敬神崇祖・尊皇の志厚く清貧の中にもたゆまず学問に励んでいた。母は滝(たき)と言い、苦しい家計を切りまわす中で親類の病人まで引き取り、温かく看病する程、愛情深く、そのうえ明るくて、ユーモアもあり、特に子供の教育に熱心であった。

 松陰には七人の兄弟がいた。皆、仲睦まじく、兄の梅太郎とは勉強や仕事も常にいっしょにしていた。松陰の生まれた頃には祖母もおり、父におとらぬ勉強家の叔父、大助や文之進も同居していたが、貧しい中にもそれぞれが助けあって真剣に生きる、すばらしい人々の集まる家族に囲まれて、松陰たち兄弟妹は人として最も大切な、優しさや真面目さや努力心などを、おのずから身につけていった。

 「子曰く、朋あり遠方より来る。また楽しいからずや」父百合之助が鋤を持つ手を止めず、高々と論語の一節を朗唱すると、兄梅太郎も声をはり上げて繰り返す。

幼い松陰は兄について口まねをする。こうして百合之助は二人に学問の手ほどきをし、「四書五経」「神国由来」などの精神を幼な心に教えこんでいった。

 松陰は五才の時、叔父大助が継いでいた吉田家の養子となり、名も大二郎と改めた。大助は山鹿流(やまがりゅう)兵学の師範であったが、松陰が養子となった翌年に、病没し、松陰はその後を受けて仕官することになった。しかし、幼少のため、杉家にいて、叔父玉木文之進や大助の高弟林真人等が代役をつとめ、早く松陰が一人前になるよう教育した。

 玉木文之進は剛毅で見識が高く、学問にひいで、松陰の教育に心血を注ぎ、容赦もなく鍛えた。その厳しさは、ちょっと本から目をはなしただけで縁側からつき落とす程であったが、松陰は兵学を継いだ大任を思って、よく耐え忍び、勉学に励んだ。そして十歳になると家学教授見習いの名で、後見人の書いた草稿をもとに明倫館(藩の大学)に出て講義するまでになった。

 松陰十歳の時に、藩主の前で御前講義をすることになり、家族の者はひたすらこの大任が立派に果たせるように祈っていた。いよいよ、その日がくると殿様の左右には、ずらりと重臣が並び、若き師範松陰がどんな講義をするか、かたずをのんで静まりかえった。松陰は落ち着いて御前に進んだ。

「三戦いは先をとること、後の勝ちと、横を用うることの三つなり・・・」

 広い講堂に松陰の声は凛々(りんりん)と響(ひび)き渡り、一つの試験でもある御前講義は大成功に終わった。静かに終わりの一礼をすると居並ぶ重臣の間に感激のため息が湧き起こった。

 「見事であるぞ。誰にならったのじゃ」藩主はわざわざ声をかけて賞賛した。

 「はい、玉木文之進先生に学びました。」

松陰がきっぱりと答えると藩主はさらに感心し「この少年は今に立派な人物になる。国の宝ぞ。」と側の家来にもらした。敬親公と松陰の最初の出会いであり、この時の期待と信頼が松陰の生涯に大きな影響を及ぼすことになった。

 その後、松陰は二十歳まで家にいて勉強し、文之進をはじめ、山田宇衛門や山田亦介等から兵学の外、日本の地理や世界の情勢も教えられ、その学問はますます充実した。そして十九才の時、山鹿流兵学の免許を得て独立し、明倫館の教授として堂々と自分の考えを弟子達に教えることになった。

 松陰二十歳の時「水路戦略」という論文を書いたのが認められ「御手当御内用掛(おてあてごないようかかり)」という職につき、次いで長州北浦海岸の調査にあたり、藩や国の防備をいかにするか、兵学者としての責任を強く感じた。もっと日本や世界のことを知らねばならぬ。だが自分には日本の地理さえわかっていないと松陰の心はいよいよはやるのであった。

【諸国遊歴 踏破一万三千キロ】
 嘉永三年(1850年)八月、藩の許可を願い出て九州遊学の旅に出た。平戸の山鹿流宗家(やまがりゅうそうけ)に教えを乞(こ)い、長崎で西洋事情を学ぶことが主な目的であった。
 この旅の途中では多くの学者や志士に会い、長崎ではオランダの船に乗り、その構造や船員の生活も見学したが、平戸に最も長く滞在し、特に葉山左内からは大きな影響を受けた。ここには清国から輸入した書物も多く、次々にこれを読破し、西洋諸国の侵略に対して防備の弱い印度や清国がいかにひどい目にあったかを知り、大きな衝撃(しょうげき)を受けた。

【諸国遊歴 踏破一万三千キロ】
 翌嘉永四年三月には、藩主に従って、江戸留学した。多くの学者に学び、全国から集まった志士と交わり、夜を日についで勉強したが、当時の学者は書物の講義だけで、真にどうして日本の国を救うかについては何も言わないので失望した。
 その中でただ一人、オランダ語や西洋の兵学砲術にも通じた佐久間象山に会い、どうして日本を救うかについての新しい考え方は松陰の心を強く動かし、その後の行動にも大きく影響した。また、九州遊学で親友になった熊本の宮部鼎蔵(みやべていぞう)に会い、二人で相模(さがみ)や安房(あわ)海岸を視察し、来春はロシア艦隊の出没する東北海岸視察を計画した。

【諸国遊歴 踏破一万三千キロ】
 そこへ今一人の親友江幡五郎が兄の仇討(あだうち)を打ち明けて同行を申し出たので二人は大いに感激し、赤穂義士討ち入りの十二月十五日に江戸出発を約した。
 松陰は東北遊歴の許可は得ていたが、まだ他藩の通過に必要な「過書」をもらっておらず、その申請をしたが間にあわぬ。大いに悩んだが、他人との約束を破るのは長州武士の恥だと決心し、罪を覚悟で藩邸を脱出した。
 三人は水戸で落ち合い、一ケ月あまりも滞在して水戸学を学び、日本の歴史や国柄について理解を深めた。その後、新潟、佐渡を回り、東北各地を周遊して江戸に帰ったのは翌年の四月であった。

【諸国遊歴 踏破一万三千キロ】
 松陰はただちに自首し、半年後に処分は「御家人召し放しの上、杉家育み」、つまり士籍家禄を取り上げられ、一介の浪人として父が世話することになったのである。百合之助は「お前の志は遠大である。一時の過ちの屈せず国に報ゆるにはまだ時間がある。」と言って励ました。
 藩主はこの処分を聞いて非常に嘆き、ひそかに十か国諸国修行の許しを与えた。松陰への期待信頼がいかに深かったかが伺われる。
 嘉永六年(1853)正月、敬親公の温情に涙ながら感謝しつつ再び江戸に向かった。この度は、瀬戸内海を船で上がり、大阪から大和に入り、伊勢、中仙道を経て五月二十四日、江戸についた。翌日は、鎌倉の瑞泉寺に母の実兄竹院和尚(ちくいんおしょう)を訪ね、母親手づくりのきび粉を渡した。
 「おお、松陰ではないか。山海千里を持ちあるいてもったいない」と言って竹院は喜んだ。松陰の誠実さを示す美談である。

【海外渡航の失敗  憂国の一念】
 嘉永六年六月三日、松陰の江戸到着を待っていたかのように米艦四隻が浦賀に来て開国を迫った。松陰は直ちに浦賀に行き、佐久間象山と共に黒船の様子を観察し、幕府の防備の貧弱さや役人のあわて振り、逃げまどう民衆の姿などを見て容易ならぬ我が国の現状を肌に感じとった。
 そして、この日本の危機をどうして救えばよいのか、青年兵学者松陰の大きな課題となった。象山について熱心に蘭学を学び、西洋の兵学や砲術の勉強もした。しかし、書物の上の勉強だけで、自分はもとより誰も実際に欧米に行き、その実情を確かめた者は、いない。

 実際を知らぬままで攘夷だ、開国だと議論するのでは全く不安である。何としても外国に渡ってその実態を確かめたうえ日本のとるべき態度を決めなければならない。
 象山ももとより同じ考えである。しかし、当時は鎖国であり、幕府に願い出ても、とても許してもらえないが、国のためには絶対誰かが行かねばならぬ。よし、この難題を自分がやろう。私は今浪人である。自分でなくてどうしてこの困難な仕事が果たせようか。象山先生も私にこれを実行するよう期待されているではないか。海外渡航に向けて松陰の決意はいよいよかたくなっていった。
 その頃、象山は幕府がオランダから軍艦を購入するとの噂を聞き、「俊才数十名を選びオランダの船に乗せて海外に出し、彼等に買わせたら、海外事情を知り、操船に慣れ、海勢(かいせい)も研究してその益大である」とし、松陰外数名を推薦したが、ついに実現しなかった。

 象山からこの話を聞いた松陰は、「官よく断行することなし、予が航海の士実ここに決す」と後に「幽囚録(ゆうしゅうろく)」の中に書いている。
 象山の考えに感心すると同時にその機を待ったが、だめである。その頃、また土佐の中浜万次郎が漂流中米艦に救われて米国に行き、今は幕府の通訳をしていることを聞き、漂流して海外に渡航することを考え、これこそ命がけであるが、国のためにはやらねばならぬと決心したのである。ちょうど、長崎にロシアの軍艦が来ているというので急ぎ出かけた。しかし、松陰が着く数日前に露艦は出航して失敗に終わった。仕方なく松陰は萩に立ち寄り数日後、萩に来ていた宮部鼎蔵と共に江戸に引き返した。

 明けて、安政元年正月、再びペリーが来航し、去年の返事を迫った。三月三日、幕府はついに日米和親条約に調印した。一応の危機は脱したが、今後更に迫って来るに違いない外国勢力を考えると日本の将来は誠に危い。何としても外国に渡ろうとする松陰の心はますます強くなるばかりである。そのころ、江戸で知り合った同郷の金子重輔は松陰を深く慕い、渡航の計画を知って是非同行をと願った。二人は今度こそ米艦を追って下田に走った。下田に着いてみると監視の目が厳しく乗船は容易ではない。十日あまりも潜伏して機会を伺った。

 三月二十七日の真夜中、ついに二人は強い風の中を柿崎海岸で小舟を見つけ、米艦を目ざして漕ぎ出した。悪戦苦闘、艦に近付くと米兵が手まねで旗艦に行けという。更に沖の旗艦に向かって全力で漕いだ。やっとたどりついて軍艦の梯子に飛び移る。小舟は刀や荷物を積んだまま波間に消えた。
 通訳が出て「あなた方の気持ちは分かるが鎖国中の日本人をつれてはいけぬ」と言う。「我々は国禁を犯してきた。帰れば、殺される」と頼んだが「今は真夜中、誰も知らぬ」と言って聞き入れない。「舟も流されたので帰ることはできぬ」と食い下がったが、「軍艦のボートで送る」と言って許してくれない。ついにボートに乗せられ、下田海岸に送り返された。二人はようやく明け初める空を仰いで男泣きに泣いた。
 発見されては見苦しい。急ぎ番所に自首して獄に入れられた。やがて取り調べの後、江戸に護送、伝馬町の獄に入れられた。
平成元年 11月15日 「山口県教育 松陰特集号」 山口県教育会 より


M.M(90/07/14)
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