すでに死を予感していた松陰が、おお急ぎで書き留めたのですが、文脈に乱れはなく冷静に門下生への最後の言葉が述べられています。
「留魂録」の執筆にかかったのは、10月25日、翌日の夕方に書き終わったようです。
薄葉半紙を四つおりにしたもので、たて12センチメートル、横17センチメートル。
※ 私は、数年前、実物を見る機会がありましたが、
「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」
という気迫のこもったスケールの大きい詩に始まるにしては、実に小さな冊子でした。
高杉晋作にあてた飯田正伯の手紙に添えて、尾寺新之丞の筆になる「松陰二十一回猛士一件につき諸雑費入用録」があり、松陰の遺体引き取り、埋葬などに使った金銭の明細などが報告されています。
それによると、遺体の引き渡しについては、獄役人との間でかなりのゴタゴタがあったようですが、結局は賄賂でかたをつけています。
獄役人4人について一人一両一歩づつを贈り、その他関係者への謝礼、穴掘りへの酒手、石塔代金など会わせて19両3分を必要としました。
その中でも沼崎吉五郎に謝礼3両という飛び抜けた額を支払っています。沼崎は、松陰がいた牢の牢名主で、それまでにも相当の金をやったせいもあるが、ひとつにはこの男が松陰を尊敬して、親身に世話をしたためといわれています。この牢名主の協力なしには松陰は二日がかりで「留魂録」を書き上げることはできなかったでしょう。
かれは、福島藩士能勢米次郎の家臣だが、殺人容疑で天馬町の牢につながれていました。牢名主になるぐらいだから、かなりの貫禄はつけていたと思われます。
松陰から「留魂録」をあずかった沼崎は、役人の目をどうごまかしたかは定かではありませんが、あるいは、賄賂を使ってうまく手なづけたものとも思われます。自分の手紙を添えて松陰の遺品とともにそれを飯田らに無事渡すことに成功しました。門下生たちは、松陰の遺書を入手したことがなによりもうれしく、
「一言一句涙の種になり申し候」
と飯田は書いているそうです。
「留魂録」は萩に送り届けられると、高杉や久坂もそれを読みました。恐らく密かに門下生たちも回し読みしたものと思われます。
ところが、高杉らの手にわたった「留魂録」は、残念なことにいつの間にか所在不明になってしまいました。一応の使命ははたし終えたものの、なんとも残念なことです。
今日「留魂録」の内容が、そっくり伝えられたのは、松陰がもう一つ同様のものを作成していたからです。これは、軍学者でもあった松陰の周到な作戦でもあったと思われます。松陰から指示されて、もう一通の「留魂録」を隠し持っていたのが、先ほどの牢名主沼崎吉五郎なのです。
かれは「留魂録」とは別に、さらにもう一通、塾生にあてた遺書を託されていました。
沼崎は、言われたとおり大切に肌身はなさず、獄中にいるあいだ、これを守り抜きました。彼はその後、天馬町の牢屋から三宅島に流されました。(沼崎の罪は恐らく無実であったろうともいわれています。)彼が孤島に流されている間に、松陰の門下生を中心として、明治維新が起きてしまい、幕府は倒れました。
突然許されて彼が本土に帰った明治7年、江戸は東京となり、世情は一変していました。郷里へ帰るあてもなく、そのまま東京に落ちついたのか、彼がどこでどのような生活をしていたかよく分からないままになっています。
明治9年になって、当時神奈川県権県令だった野村靖(旧名和作、松陰門下生、禁門の変で討死した入江九一の実弟)の前にひょこりと一人の老人があらわれます。
そして、「私は長藩の吉田松陰先生の同獄沼崎吉五郎というものです。」と言っていきなり「留魂録」をさしだしたのです。
野村に「留魂録」を渡したあと、彼は飄然と姿を消してしまいます。野村は彼を引き留めようともせず、また後を探して追うこともなかったようです。
(野村自身の著書「先師松陰先生手蹟留魂録の後に書す」にはそう書かれているそうです。)
※ 本文の主な内容は、古川 薫 著「留魂録の世界」より引用しました。
沼崎の手で守られた松陰自筆の「留魂録」は、現在、萩市の松陰神社境内の資料館に展示してあります。また、山口県教育会館内にある財団法人松友会では、「留魂録」のレプリカを販売しているようです。