松陰シリーズ(松陰読本より)


 以前に、「松陰シリーズ」という名前で、松陰先生のお話をUPしていまいた。これは、山口県教育会発行の「松陰読本」から、ワープロで打って、UPしていました。無断で使ってはいけないと思いまして、削除しておりましたが、M.Mさんの、ご心配で、発行所の山口県教育会から転載許可がおりましたので、再UPいたします。
 出典を明記すれば、使ってもよろしいとのことでした。

 今から、UPする文章は、下記の本から転載した文章です。
「松陰読本」
昭和55年7月31日初版発行
平成元年5月1日  10版発行
編集者 萩市教育委員会
発行者 財団法人 山口県教育会
発行所 山口県教育会

 今年は、松陰生誕160周年の年です。1859年(安政6年)10月27日が、松陰先生の命日です。30才の人生でした。

 たかが、30才で、これほどの偉業を成した人は、日本の歴史の中でも、少ないのではないでしょうか。テレビなどの宣伝で、

 「至誠にして、動かざるものは、未だこれあらざるなり」

という、松陰先生の言葉を言っていますが、まさに、松陰先生の人生そのものが、至誠の2文字であったと言えると思います。

松陰の誕生
吉田松陰は、今から百五十年前の天保元年(1830)八月四日、萩の藩士杉百合之助の次男として生まれ、幼名を虎之助といいました。杉家は、萩の東よりにある松本村の東光寺山の南ふもと、団子岩の丘にありました。


松陰の父母
杉家は、身分の低い武士の家でした。松陰の父百合之助は、二十一才の時に亡くなった父のあとを継ぎ一家の主人になりましたので、城の勤めのひまをみては、田畑の仕事をしながら生活をしていました。しかし、苦しい生活の中にも、二人の弟、大助と文之進の勉強には、特別気を使いました。

 さらに、百合之助は、先祖を敬い神を尊ぶとともに、尊王の志のあつい人でした。幼少の松陰がこの父から受けた影響は大きいものがあります。

 母は滝といい、苦しい杉家の生活をきりまわしながら、田畑の仕事の手助けまでしました。

 ある時、親類の病気のおばあさんを家にひきとり、食べるものはもちろん病人の汚れもののせんたくまで、いやな顔ひとつみせずに看護しました。

 きびしい人として知られ、めったに人をほめたことがない文之進も、

「滝姉さんは、男もかなわないりっぱな人だ。」

とほめたそうです。


松陰の兄弟
 兄の梅太郎と松陰は、父につれられて、山や畑の仕事に行きました。父は畑につくと、その日に教える本を、ふところから出してそばに置き、仕事にとりかかります。

「さあ、始めるぞ。よく聞いておけ。」

百合之助は仕事しながら、覚えている一句を、声高々と朗唱します。梅太郎が一心にそれを聞き、声をはりあげてくりかえします。幼い松陰も、まわらぬ舌で口まねをします。兄弟の声が小さくなると、百合之助は、
「もっと、大きな声でー、お前たちは男であろう。男はな、どんな時にも元気をなくしてはならないのだ。」
 こうして、幼い兄弟は、意味もよくわからない「大学」や「論語」や「孟子」などの文章を、口まねをしながらおぼえていきました。

 兄弟は仲がよく、特に梅太郎と松陰は男兄弟であったので、勉強も手伝いもいつもいっしょうにしました。


松陰の妹
松陰は二つちがいの妹千代をとくべつにかわいがりました。

秋になると、家のそばにある大きなしいの木に、しい実が、たくさんなりました。裏山には、まつたけをはじめ、たくさんのきのこがでました。松陰は、しいの実を拾う時もきのこを取りに行く時も、いつも千代をつれて行きました。



杉家の人々
杉七兵衛-------
(おじいさん)
おばあさん-----
(松陰の父)
百合之助 62才
|--------------------
(松陰の母)
 84才

(松陰のおじ)
大助 (吉田)29才
文之進 (玉木)67才
(松陰のおば)
乙女 (佐々木)?

(松陰のきょうだい)
梅太郎 (杉)83才
松陰(吉田)30才
千代(児玉)93才
寿 (か取)43才
 早世
 (久坂)79才
敏太郎(杉)32才


松陰と玉木文之進
 百合之助には二人の兄弟があり、上の弟の大助は吉田家をつぎました。吉田家は、代々兵学の先生として毛利家につかえていましたが、大助が不幸にして早く死にましたので、松陰は六才でその後をつぐことになりました。この年、松陰は大次郎と名をかえました。

 百合之助の弟の文之進は、玉木家をつぎました。玉木文之進は、少年時代から、生活が楽でなかった杉家に育つうちにも、武術をねり、学問にはげみました。特に、中国の孔子の教えや、山鹿流の兵学は力を入れて研究しました。

 松陰は、兄梅太郎と共に、文之進について勉強しました。文之進の教え方はたいへんきびしく、本の読みぶりや、勉強する時の姿勢についてもずいぶんや

かましくいいました。ある時、松陰が本から目をそらしたといって、えんがわから突きとばしました。松陰は、幼いながらも、兵学の家をついだ大任を思い自分の勉強の態度を反省しました。その後、文之進は杉家を出て別に家をもちましたので、兄弟二人は毎日そこへ勉強にかよいました。ある年の元旦に、兄梅太郎が、

「今日だけは、休もうではないか。」

と言いました。

「兄さん、正月も一年の中の一日ですよ。」

という松陰のことばに梅太郎もうなずき、二人ででかけていきました。

 学問は、どんどん進んでいきました。中でも、人間として守らねばならない大切なことや、日本の国のなりたちなどは、骨身にしみるほど教え込まれました。ことに、松陰は、山鹿流の兵学を教える吉田家をついだ甥でもあるので、兵学家の文之進は特に力を入れ、目をかけて、一生懸命に教育しました。



御前講義
 吉田家をついだ大次郎は、毛利藩の兵学の先生という身分になります。そして、十一才の時、殿様の前に出て、兵学の講義をすることになりました。父、百合之助は、講義の日をむかえる大次郎を静かに見守っていました。

 しっそな礼服をつけた大次郎は講義の席に進み、ていねいに一礼しました。殿様の前には、藩のおもだった人たちが左右にずらりと並んで、少年大次郎がどんな講義をするかと、かたずをのんでみつめていました。

 その場は、水を打ったようにしんとなりました。

「三戦は、先をとること、後の勝ちと、横をうるとの三つなり。」

大次郎の声がりんりんとひびきます。はっきりしたことばで、すらすら進み、大次郎にとっては試験でもあるこの講義は大成功のうちに終わりました。

 集まった者がみな感心しました。

 大次郎がていねいに一礼すると、殿様は満足そうなまなざしの中で、

「みごとであった。」

とわざわざ声をかけてほめました。

「誰について勉強したのか。」

と聞くと、

「叔父の玉木文之進でございます。」

と答えました。後で殿様はそばの家来に、

「吉田大次郎という少年は、今にりっぱな人物になるぞ。あの子は、きっと国のために大いにはたらいてくれるであろう。」

と言われました。



明倫館教授
 松陰は、九才の時、家学教授見習という名で、藩校明倫館へ出ました。これは、吉田家が兵学を教える役目でしたから、そのころのならわしとして、松陰があとをついだのです。しかし、実際には、松陰がまだ子どもでしたので、門人のおもな人が兵学の講義を助けていました。

 そして、家学師範という役目で、一人前の先生として、明倫館に出たのは十九才の正月でした。

 明倫館の先生となった松陰は、剣術をしても勝負にこだわるような武士の考え方や、しきたりのよくない所を、するどく批評して、藩の人たちの注意をよび起こしました。

 そのころは、禄米が多いとか少ないとかで、役目や仕事にも大変なちがいがあって、身分ということがやかましく言われていた時代ですが、松陰は、

「身分のことなどは考えずに、実際に力のある人は、どしどし重い役目にもつかせなくてはいけない。」

といいました。

 十九才の松陰が、少しもおそれず、正しいと信じた自分の意見を堂々と述べた態度はりっぱで、心ある人たちを感心させました。

 そのころの兵学は、砲術や西洋の戦術の影響を受けて、次第にかわりつつありました。

 松陰は、兵学の理論は言葉で理解するだけではなく、実地に演習することが大切だと思っていました。そこで、この年の十月、門人たちをひきつれ、門人

で藩の重役益田弾正を総大将として、羽賀の台で演習をしました。



九州遊学
 松陰は二十一才の八月、許しを受けて、はじめて藩をはなれ、九州に遊学しました。長崎、平戸、熊本など多くの地をまわりましたが、特に平戸には最も長く滞在し、山鹿万介や葉山左内の教えにより、大きな影響を受けました。

 また、今まで見ることもできなかった、アヘン戦争や世界のようすを書いた新しい本を読んで、日本の国防の大切さを強く考えるようになりました。

 熊本では、宮部鼎蔵という、心を許す友だちと知合いになりました。

 松陰は、この遊学中の勉強を忘れないためにくわしい日記を書きました。この勉強方は、これから一生を通じて続けられます。

 こうして、百二十余日の九州遊学は、松陰の考え方を一変させ、時代の動きを深くみつめるようになりました。



江戸留学
 翌年三月、松陰は殿様のおともをして、江戸に留学することになりました。江戸には偉い先生がたくさんいることを聞いていた松陰は、九州留学の時以上に喜びました。江戸では多くの先生について勉強しましたが中でも兵学者佐久間象山の新しい考えには強く心をひかれました。

 一方、熊本で知り合った宮部鼎蔵をはじめ、多くの友だちとも交際し、勉強にはげみました。



東北遊歴
 そのころロシアの船が北方の海にあらわれることを聞いた松陰は、北方海岸の防備が気がかりになり、宮部鼎蔵とともに、東北遊歴の計画をたてました。そこで、藩に遊歴の願い出をして許可を得ましたが、手ちがいで証明書がおくれたので、とうとうそれを持たないまま、十二月十四日江戸を出発しました。 途中水戸に立ち寄り水戸学を学び、日本歴史の大切さを知りました。

 冬の東北路は深い雪におおわれ苦労しました。会津若松、新潟、佐渡を経て日本海ぞいに北上し、ついに本州の北端、竜飛岬に到着しました。

 松陰は、荒波の津軽海峡をへだて、松前の連山を眼の前にして、北辺の守りの大切さを強く感じました。

 こうして、百四十日の旅を終え、四月五日、江戸に帰った松陰は、藩の掟を破った罪を覚悟していました。

 その後、松陰は、国元へ帰国を命じられたので、杉家で謹慎して藩の処分を待ちました。十二月、松陰は亡命の罪で藩士の身分をうばわれ、同時に明倫館の先生もやめることになりました。このことによって、今までのように藩外で勉強をすることができなくなってしまいました。

 しかし、殿様は、松陰がそうなったことをたいへん残念に思い、何とか続けて勉強ができるようにしてやりたいと思っていました。



黒船の来航
 嘉永六年(1853)六月三日、それまで平和であった日本をふるえあがらせるような大事件が起こりました。ペリーがアメリカの軍艦四隻を率いて、東京湾の入口、浦賀にやってきたのです。日本人はこの軍歌を黒船と読んで、たいへんおそれ、つぎのような歌をよんだ人もいました。

   太平の眠りを覚ます じょうきせん

      たった四はいで 夜もねむれず

 松陰はふたたび江戸へ出たばかりの時、この事件を聞き、たいへん驚きました。さっそく浦賀に行き、佐久間象山等と黒船のようすをくわしく観察しました。

 ペリーはアメリカ大統領の国書を幕府に手渡し、開国を求めてきました。そして、来年もう一度日本に来て、その返事を聞くことを告げて去っていきました。



海外渡航の計画
 佐久間象山は早くから西洋砲術を研究していたので、世界の新しい時代が来ることを感じとっていました。そこで、

「日本も松陰のようなすぐれた青年を西洋に送り、実際に外国のようすを見せて、勉強させなければ、世界の国々にたちおくれてしまう。」

と思っていました。幕府の役人の中にも、同じような考えをもっている人がいましたが、こうした考えはその時には、とおうとう実現しませんでした。

 象山の考えを聞いた松陰は、その偉大な見通しに敬服するとともに、自分によせられた期待にたいへん感激しました。そして、その機会がやってくるのを今か今かと待ちかまえていましたが、だめになりました。

 そのころ、土佐の漁民で中浜万次郎という人がM漂流中をアメリカの船に助けられ、長くアメリカに滞在した後、日本に帰ってきたという事件がありました。しかし、かいした罪にもならず、かえって幕府に召し出されたといううわさがありました。象山は万次郎のように漂流の方法をとって渡航すれば、成功するかもしれないと思いつき、そのことを松

陰に話しました。しかし、漂流は九死に一生ともいうべき、命がけの大冒険ですから、強くすすめはしませんでした。松陰は、命がけでやることはすでに覚悟のうえのことですから、たいへん乗り気で、さっそく漂流の方法を実行しようと決心しました。

 そのころ長崎にロシアの船が来ていました。松陰は漂流の方法でこの船に乗りこもうと考え、九月十八日、象や万別れを告げて江戸をたちました。長崎に着いたのは十月二十七日でした。しかし、ロシアの船は三日前に出航したあとでした。こうして松陰の海外渡航の第一回めは失敗に終わりました。

 あけて安政元年(1854)一月十四日、ペリーは軍艦七隻を率いてふたたび日本にやってきて、去年の返事を求めました。幕府の重臣たちは、いろいろ相談しましたが、よい方法もないので、アメリカの要求を受け入れることを決め、三月三日、ついに日米和親条約に調印しました。



下田渡航のしっぱい
 さしせまった日本の危機は、一応のがれることができましたが、松陰は、これから先、つぎつぎに押し寄せるかもしれない外国の勢力のことを思うと、将来の日本のことが心配で、じっとしておれませんでした。今度こそ何とかして外国へ渡ろうと決心し、アメリカの軍艦に乗り込むことを考えつづけました。江戸で知り合った同郷の金子重輔が、ぜひ行動を共にしたいというので、ふたりで支度をととのえ、象山や一部の友人と別れを告げて、アメリカの軍艦が停泊している下田に向かいました。

 めざす軍艦を目の前にしながら、ひそかにそれに乗り込むことは容易なことではありません。十日あまりも機会を待ちました。

 三月二十七日、それは風の強い夜でした。ふたりは柿崎の海岸で小舟をみつけ、波風の高い海にこぎ出しました。こぎなれない船で、真夜中の荒れくるう海をいくことは、なみたいていではありません。やっとのことでアメリカの軍艦にこぎつけると、アメリカ兵が手まねで、ペリーの乗っている旗艦に行けといいます。旗艦はさらに沖に停泊していました。

 ふたたびその船をめざしてこぎました。波は一だんと高くなり、思うように軍艦に近づけません。ふたりは刀と荷物を船に残し、やっとのことで軍艦のはしごにとびうつりました。小舟は波にのまれて、まもなく、見えなくなりました。

 松陰はアメリカ兵と、わからぬことばでやりとりをしたあげく、やっとのことで甲板に上ることができました。今度は日本語の少しわかる通訳が出て来て松陰のたのみを聞いてくれました。

「あなた方の気持ちはよくわかります。でもいま日本人は外国に行くことは固 く禁じられていますので、ふたりをつれていくことはできません。やがて日 本とアメリカとが、おたがいに行き来するようになりますから、その時にこ そアメリカに来なさい。」

といって、いくらたのんでも聞き入れてくれません。

「わたしたちは国のおきてを破ってやってきました。このまま帰ればきっと殺 されます。」

というと、

「今は夜です。だれも知らないから早く帰りなさい。」

「乗ってきた小舟は荷物といっしょに流れてしまいました。もう帰ることがで きません。」

「軍艦のボートで送ってあげます。小舟は帰りにさがしなさい。」

何とかつれていってもらおうとくいさがりましたがだめでした。

 ふたりの心にはりつめていたものが、音をたててくずれていくような気がしました。暗い夜空をあおいでくやしさに泣きました。

 二人の命がけの向学心は、アメリカ人に深い感銘をあたえました。ペリーも幕府に対し、「こんなりっぱな青年をきびしく罰しないように」と、わざわざ申し入れたほどでした。



江戸から萩へ
 江戸幕府は三代将軍徳川家光のとき、鎖国のおきてを作りました。このおきては、日本から海外へ出ていくことも、海外から日本へ入ってくることも禁止したきまりで、松陰が海外渡航をくわだてたころまで、二百年あまりも続きました。

 下田での海外渡航に失敗した松陰と重輔は、夜のあけるのを待って、自分たちのしたことを自首して出ました。ふたりは下田から江戸送りとなり、しばらく江戸の獄につながれていましたが、間もなく幕府から国元へちっきょを命ぜられ、萩に送りかえされることになりました。二度と萩の地をふむことも、両親や兄弟に会うこともできないと思っていた

松陰の心はかすかに動きました。それにしても、自分の海外渡航の失敗がもとで、これからの日本になくてはならぬ恩師佐久間象山が、獄につながれたことを思うと心がいたみました。



重輔の死
 重輔は江戸の獄で重い病気にかかり、江戸を出発するころには歩くこともむつかしいありさまでした。松陰は重輔の病気をひどく心配し、医薬のことや着替えのことを役人にたのんだり、護送の道中でも、ならべて置かれたかごの中から、病気の重輔をはげまし続けました。

 安政元年(1854)十月二十四日、ふたりは萩につきました。武士であった松陰は野山獄に、身分の低かった重輔は岩倉獄に入ることになりました。下田での海外渡航以来、常に行動を共にして来たふたりH,この時の別れが最後となりました。

 野山獄と岩倉獄とは、道路をへだって向かい合っていたので、松陰は人にたのんで、重輔の病状を聞いたり、詩や手紙を届けてはげましたりしました。しかし、そのかいもなく、安政二年一月十一日、重輔はわずか二十五才の若さで入獄のまま死んでいきました。

 重輔の死を聞いた松陰はたいへん悲しみました。命をかけてアメリカへ渡ろうとした重輔は、自分の分身のような気がして、何とかしてその霊をなぐさめたいと思いました。重輔は身分の低い人でありながら、武士にもおとらない、りっぱな働きをしたのだから、そのことをぜひ書き残して、後の世の人に知らせたいと思い、「金子重輔行状記」を書きま

した。また、全国の知人に手紙を出して、歌や詩を集めて詩集を作ったり、獄中で自分の食事をぬいてお金をため、墓の前に石の花立をそなえました。



獄中の松陰
 獄に入れられるとたいていの人は生きがいを失い、やけを起こしがちなものですが、松陰の考え方はちがっていました。やけを起こすような人は、ほんとうに自分を大切にしていない人だと考えていました。「獄では行動は自由にできないが、心は自由である。本を読んだり、ものを考えたりするには、最もよい所だ。」と思いました。

 そこで、たくさんの本を読もうと決心し、兄や友人にたのんで、世みたい本を届けてもらいました。それらの本は歴史、地理、伝記、兵学、医学、政治、道徳など、広い範囲にわたっていました。松陰が野山獄にいた一年間に読んだ本は、約六百二十冊で、月平均四十数冊の割合になります。

 松陰の読書は、ただ本を読むというだけでなく、読んだら、大切なことは別の紙にぬき書きをしたり、自分の考えを書きそえたりしました。松陰は、いつも「書物を読むことは、昔のりっぱな人に会っていろいろ教えを受けることであり、その教えを今の世の中に易化していくことが大切だ。」といっていました。

 また、今までのことを思いだして書きとめたり、読んだ本のことや、人と話したことなども日記に書いたりしました。



獄の囚人
 野山獄には、松陰のほかに十一人の囚人がいました。五十年近くもごく生活をしているという七十六才の老人をはじめ、いちばん若い人でも三十六才でしたから、二十六才の松陰は最も若い囚人でした。

 これらの人たちは、はじめのうちは松陰に気づきませんでした。しかし、自分たちとは違い、毎日熱心に本を読んだり書きものをしたりするようすを見るうちに、松陰の偉さがしだいにわかるようになってきました。そして、だれいうとなく、「何かわたしたちに話をしてくださいませんか。」とたのんでくるようになりました。

 この人たちは長い獄生活のうちに、希望を失い心がひがんで、毎日ぐちばかり言っていましたので、松陰は何とかして生きる希望をもたせたいと思いました。そこで、中国の孟子のことばをかりて、人間が生きていくことの意味や、人間として守らねばならない道の大切さなどを話しました。また、獄中にいても、良心を失わず、明るく生きていけば、し

あわせであることも話しました。松陰の話は、よくわかりおもしろかったので、聞いているうちに何となく心がふるいたち、勉強にも身がはいりました。

 また、囚人たちと話し合って、習字のじょうずな人はみんなに習字を教え、俳句のじょうずな人はみんなに俳句を教えるようにしました。松陰も仲間にはいって、みんなといっしょに勉強しているうちに、獄の気分もしだいに明るくなっていきました。

 おのように囚人や獄中の気分がかわていくようすにろう役人も驚き、松陰がりっぱな人でありことを改めて知りました。それからは、夜でも講義ができるようにあかりをつけることを許したり、講義のある時には自分も廊下にすわって、松陰の話を熱心に聞きました。

 このようなことがあって、「こんなりっぱな人をいつまでも獄に入れておくのはいけないことだ。」という声が、あちらこちらから出てきたので、藩も松陰を獄から出すことにしました。それは、安政二年の年の瀬もせまった十二月十五日のことでした。野山獄の生活は、松陰にとって、今からはじまる松下村塾での教育の大きな土台となりました。



幽囚室の生活
 安政二年(1855)十二月、一年二ヶ月にわたる野山獄での生活を送った松陰は、許されて、父、母のいる杉家へ帰ってきました。家の人々の喜びはひとしおです。親類の人たちも久しぶりに集まり、一家には、なごやかな空気がただよいました。

 しかし、わが家に帰ったといっても、それは謹慎の身です。庭へ出ることや家族以外の者と会うことなどは禁止されていましたから、松陰は三畳半のせまい部屋にとじこもりました。

 この松陰のようすを見て、父、兄、親類の久保五郎左衛門の三人は、松陰が野山獄で講義をした「孟子」の残りを完成させることを思いたち、松陰に講義を続けるようにたのみます。父たちが講義を聞こうというのです。松陰をはげまそうという心づかいもあったのでしょうが、それにしても、学問を好んだ以下のようすがしのばれます。

 間もなく安政三年の新しい年を迎え、松陰は二十七才になりました。

 これから約二年半の間は、松陰の一生で最も平和な時期です。松陰はひたすら、読書や書きものをしました。



講孟余話
 三月になって、講義を聞くのは、父たち三人のほかに、玉木文之進の子の彦介をはじめ、二人、三人と親類の者たちです。狭い部屋は活気にあふれていました。

 こうして、この年の六月「孟子」の講義が終わりました。野山獄で講義をはじめてから一年がたっていました。

 この講義がもとになって出来上がったのが有名な「講孟余話」(こうもうよわ)という本です。この本は、「孟子」という本の各文章を取り上げ、それについての説明や、自分の考えを書いたものです。孟子といえば、中国の昔のすぐれた人物として有名ですが、松陰は何らおそれることなく、堂々と孟子について自分の意見を述べています。これも、松

陰が日夜をわかたぬ勉学により自分のはっきりした考えをもっていたからできたことです。

 また、日本の国の将来に関係のあるようなところでは、その説明にも熱が入り、日本の国の立場を強調しました。

 この講義が終わる頃には、教えを受けに来る青年たちが、さらにふえてきます。そして、「孟子」の講義がすんでからも、また別の本を、という熱心な希望をいれて、「武教全書」の講義を始めます。講義はつきに六回行いました。さらに、歴史、経書、農業、世界地理の講義も続きました。

 この間にも、松陰の心にかかるのは、一年三ヶ月の間、親しく過ごしてきた野山獄十一人の囚人のことでした。一日も早く獄から出られるようにしたいと思い骨折ってきました。その努力のかいあって、後に七人が獄から出ることができました。



たぎる情熱 
 そのころ安芸の僧黙霖におくった手紙から,松陰の考え方を、見てみましょう。

 松陰は、黙霖にあてて、

「あなたからの手紙に、幕府を倒せということがあるが、そのためには幕府を 倒す手順がある。わたしは毛利家の臣であるから、いつも毛利につくすこと を心がけている。毛利家は天皇の臣であるから、わたしが毛利家につくすこ とは天皇につくすことになる。しかしながら、頼朝が幕府を開いて六百年に なるが、幕府や藩は天皇につくしてこなか

った。だから、まず藩主にこのこ とを反省させ、さらには幕府にもこの罪を知らせて天皇につくさせなければ ならない。今、わたしは、幽囚の身であるから、幕府や藩主の罪をいさめる ことができないが、このまま幽囚の身で終わることがあっても、又途中で首 を切られるようなことがあっても、必ずわたしの志しを継ぐ者を後世に残す 決意であ

る。このわたしの誠は、いつか必ず、わかってもらえると信じてい る。誠をつくしてそれに感じない者はいないのです。」

と書いてあります。

 このころ、久保五郎左衛門の塾のために、「松下村塾記」を書きました。その中にも、黙霖へ出した手紙に書いたように、日本の国をどう変えていかなければならないかを強調し、将来この松下村塾から、松陰の志しをすぎ周囲をふるいたたせる人物を出現させたいといっています。



松下村塾の由来
 松下村塾は、松陰の叔父玉木文之進が松本村に塾を開き、地名をとって松下村塾といったのが始まりです。松陰が十三才の時でした。松陰兄弟もここで教育を受けました。

 その後、玉木文之進がいそがしくなり、教えることができなくなって、塾は一時すたれましたが、親類の久保五郎左衛門という人が自分で開いた家塾に松下村塾の名前をつけました。ところが、松陰が野山獄から帰り、幽囚室にいるようになって、「学問のある松陰をあのままに閉じ込めておくことはおしい、せめて家族や親類の者だけでも寄って講義を

聞こうではないか。」とだれ言うとなく言い出し、やがて講義が開かれるようになりました。

 ある日、近所の吉田栄太郎がやってきました。

 栄太郎は、

「先生、ぼくに学問を教えて下さい。」

松陰は、

「ああ、よく来たな。では、これからいっしょに本を読もうか。どんな本がよ いかな、これではどうだ。」

といって一冊の本を渡しました。

 栄太郎は、読み終わるなり、

「ぼくは、こんなことを学びにきたのではありません。」

 松陰は驚いて、思わず栄太郎の顔をじっと見つめました。

「では、この本はどうだろう、。」

といって、「孟子」の一節をみせました。

 栄太郎は、まちがった君主をみすててよそへ行き、高い位についた人の話を読んで、

「命がけで君主を諌めなかった人が、どうして聖賢になれるのですか。」

と聞きました。

 松陰は非常に喜びました。栄太郎こそ、なんのために学ぶかということを明確につかんでいる少年であり、自分が求めていた弟子だと思いました。

 松陰は、「たとえ、このまま幽囚の身で終わっても、自分の志しは達成される。」と考えていました。いま、その志を達成そてくれる弟子を得たのです。松陰の喜びと期待はどんなに大きかったことでしょう。松陰は人間のための学問、日本のための学問について強い期待をもったのです。

 このころから、松陰の指導による松下村塾がはじまり、教えを受けに来る者がそだいに増えてきました。そこで、屋敷のうちの小屋を修理して、八畳ひと間の部屋をつくりました。

 その後、門人の数がさらに多くなり、やがてせまくなったので、塾生の控え室を一棟建てることにしました。

 萩野町から古家を買ってきて、先生と塾生が助け合って屋根をふき、壁をぬり、天井を張り、力を合わせて十畳半の建増しをしました。それが、いま残っている松下村塾の建物です。



松下村塾の勉強(1)
 松下村塾での勉強はただ物事を知ったり、理くつを言うだけではなく、何事も実行していかなければならないことを学ぶことでした。松陰は、「自分の持っている知識を役立てて今の日本の問題をどう解決するか。みんなの胸中にもっている問題を、どういう風に解いていくかということを学ぶ、生きた学問をせよ。」と説きました。

 また、ある時塾生に、

「君は何のために学問をするのかね。」

とたずねると塾生は、

「どうも本が読めませんので、よく読めるようになりたいと思います。」

とこたえました。すると松陰は、

「学者になるのではないよ。人は学んだことをどう実行するかが大切だよ。」とさとしました。

 また、それぞれの人の性質を考え、すぐれたところをのばすように教えました。人は誰でも得意とするものがあり、また性質もちがっていて同じではありません。だから松陰は各自の性質にあったように、また得意とするところをはげむようにしむけました。とくに松陰が考えたのは、「うそやうわすべりでなく、まごころをもって物事にあたっていく。

」ということでした。

 松下村塾に古物商の子が来ていました。この子は、医者になりたいというので、松陰はそのわけを聞いてみました。するとこの子は、

「商人は、いつもぺこぺこ頭をさげなくてはいけないからきらいです。」

といいます。そこで松陰は、

「人にへつらったり、金儲けのことばかり考えたりしないで、お前の家は古物 商だから古本もあることだし、商売をしながら勉強し、正しいことだけ堂々 と守っていけば、きっとりっぱな商人になれるだろう。」

とさとしました。この子もおもいなおしてやる気になりましたので、松陰は「孟子」の中のことばを引き、溝三郎という名前をつけてやりました。

 このように、松陰はどんな子どもにもその子に合った教育をしました。

 松陰自身も野山獄のころにもまして勉強しました。村塾で講義が終わってからも、読みかけの本を読んだり、書き物をしてねむくなれば、ふとんはしかないで、そのまま机にうつぶしてしばらくねむり、また起きて読書や書き物の続きをしました。塾生たちも、先生のこの気力にはげまされ、真剣に勉強しました。



松下村塾の勉強(2)
 村塾の部屋には、「万巻の書を読むにあらざるよりは、いずくんぞ千秋の人たるをえん。一己の労を軽んずるにあらざるよりは、いずくんぞ兆民の安きを致すをえん。」と竹にほりこんでかけました。これは勉強しなければりっぱな人にはなれない。少しの労もいとわないようでなくては世のためにつくす人にはなれないと、勉強修業や、社会国家につくす

心構えをしめしたものです。

 松陰は村塾で、いつも次のようなことをいいました。

○まごころをこめてやればできないことはない。どんな人でもまごころをこめ て話し合えばきっとわかってくれる。

○何事をするにも、しっかりした志を立てることが大事である。

○学問をはじめたら、やり終わるまで強い心を持ってがんばりぬかねばならな い。

 松下村塾では、机について本を読むばかりでなく、働きながら勉強することもありました。

 先生が畑の仕事をするときには、塾生たちも、それを手伝いながら質問したり、お互いに討議したりして、ときには時間もたつのを忘れるほどでした。

 また、米をつきながらの勉強は塾生たちにとっても、たいへん楽しいものでした。

「おい、こんどはぼくが代わってつこう。」

先生と向かい合って台柄の上にあがり、二人がきねをふみながら本を読んだり、作文をもとに意見を言い合ったりしました。

 門人がふえるにつれて、藩も松陰に家学を教えることを認めるようになりました。

 遠足や攻防演習をするときは、時刻を定めて山頂などに集合し、途中はそれぞれ長幼のまじった班を作り、みんながいたわり合い、助け合うように仕組みました。

 また、世界のようすに目を開き、日本の進んでいく道を教えました。

 勉強するのは自分の立身出世のためにするというような、せまい考えではなく、日本の国をりっぱにし、毛利藩をよくするという考えを中心において教えました。

 先生のことばの中に、「松下ろう村なりといえども、誓って神国の幹とならん。」ということばがあります。「松本はさびしい、いなかの村であるが、ここから日本の国の柱となるような人がきっと出るのだ。」という意味です。

 松下村塾には武士や町人の区別なく、勉強しようとする人はだれでも塾に入れました。この時代は武士だけが学問をする機会を与えられていて、武士と町人が一緒に学問をすることがなかったのですが、松下村塾ではそんな身分の区別なく、勉強したい人は自由に来ることができました。



松下村塾の門人
 村塾に集まってきた門人は多い時には五十人ぐらいいましたが、毎日の勉強には十四、五人が集まりました。ほとんどの人が身分の低い人たちでした。その門人の中には先生と塾の中に寝泊まりして勉強する者もいました。子の人たちがご飯たきや洗濯などの手助けまでしていたのは松陰の母と妹たちでした。
 せまいながらも心と心のふれあった中で、だれもが力いっぱい休むひまもおしんで勉強しました。だから、松陰が教えたのはわずか二年半でしたが、久坂玄瑞、吉田栄太郎、入江杉蔵、伊藤博文などりっぱな人がたくさんでました。
 松陰神社の左となりにあるお宮は、松門神社といいます。ここには、松陰の教えをうけ、人のため国のために働いた四十二名の人々がまつってあります。



再び野山獄へ
 松陰が松下村塾で塾生たちと生きた学問をしている間に、日本はさらにむつかしい情勢の中に入っていきます。松陰は日本の国のことを憂えるあまり、門人たちといろいろなことを話し合いました。そして幕府に反対する人をとらえたり、きびしく取り締まったりしている幕府の老中間部詮勝をたおそうと計画し、藩に申しでました。しかし、幕府を恐れる役人によって、「松陰の学問は人の心をまどわすものである。」という理由で、安政五年(1858)十二月二十六日、再び野山獄に入れられてしまいました。松陰の国を思う気持ちと学問に対する情熱はつのるばかりでした。

 獄中の松陰は門人たちの知らせによって国内の事情を知り、自分の意見をそれぞれの所にとどけさせます。しかし、それらの計画や意見もついに取り上げられませんでした。そこで松陰は、絶食をして自分の誠の成否をためそうとちかいました。

 このことを知った父母はおどろいて、すぐに兄の梅太郎を獄にやり、絶食を思いとどまるように心をこめた手紙をとどけました。特に母滝は、「たとえ野山やしきに御出で候ても御ぶじにさえこれ有り候えば」とやさしい手紙に食べ物をそえて送りました。愛情のこもった手紙に松陰は強く感激し、ついに絶食の心をひるがえしました。



江戸送りを聞いて さだきち
 安政六年五月十四日、松陰はうす暗い、牢屋の中で読みかけの書物を前において、じっと目をとじて考えていました。

「梅太郎殿がご面会です。」

というろう役人の声にはっとわれにかえった松陰は、ろうごうしの外に立っている兄梅太郎のすがたをみつけました。

「おお、兄上。」

 こうしの方へよて行くと、梅太郎も廊下にしゃがんで、こうしのそばへ顔をよせていきました。

「どうだな、体のぐあいはよいかな。」

 いつものやさしい声です。しかし、その中に少しふるえをおびて悲しそうなようすが見えます。

「はい、べつだん変わりはありません。ただこ間から読みたいと思っている書 物がありますので、お願いいたしとうございます。」

「そうか、何か知らぬが、さっそくととのえてあげよう・・・・・が、その書 物も、もうこの野山屋敷では読まれないぞ。」

「えっ。」

 松陰はおどろいて兄の顔をみつめました。梅太郎もすこしの間、目をそむけました。

「幕府の命令で江戸送りになるのじゃそうな。」

「そうでございましたか。きたるべき日が来たというわけですね。」

 思いのほか松陰は落ち着いています。

 間部老中をたおそうと計画したことが幕府に知れたのかもしれない。そうだとすれば、こんどの江戸行きは死刑を意味している。正しい考えをつらぬき、国のためになることなら死んでもよいのだ。少しもおそれることはないと覚悟しました。

 江戸にいる高杉晋作ら三人の門人たちからも同じ知らせがとどきました。

 それから門人たちが毎日のように牢屋へ会いに来ました。先生の江戸送りのことを知っておどろき、久坂、福原、岡部らは、さわぎまで起こしそうな気配でした。

 その中にあって、松陰ひとりは、すんだ水のように静かな毎日を送っていました。そして、父や兄や妹にあて、また、親類や友人、門人たちにあてて、それぞれ別れの手紙や詩や歌を書きました。また、門人の中に絵の作業をした松浦亀太郎がいるので、先生の肖像を、かれに描かせてはという久坂の言い出しで、松陰の肖像画が出来上りました。松陰は

これに賛を書いて門出の決心をしました。これらの詩や文は「東行前日記」に集められています。

 松陰はいま死出の旅に立つというのに、少しも心を乱していませんでした。そして、これもよい機会だ、幕府の役人の前で堂々と正しい自分の意見をのべようと深く決心していました。

「誠をもってとけば正しい考えのわからぬことはあるまい。『至誠にして動か ざるものは未だこれあらざるなり』ということばがある。自分は二十年間も

 学問をしてきて、まだこのことばが本当であるかどうか知らない。今度こそは実際にためしてみようと考えている。」

という意味のことを書いて、門人であり、妹むこにあたる小田村伊之助にわたしました。

 だんだん出発の日がせまってきました。門人の品川弥二郎がたずねて行きますと、松陰はせっせとろうの中をかたづけていました。

「先生、何をしておいでですか。」

 松陰は弥二郎をみてにっこりわらいました。

「書き物の整理をしているのだよ。」

 弥二郎も松陰の心をくんでにっこりわらいました。

「この書き物はわたしの命だ。弥二、いつまでも大事に持っていてくれ。」

 わたされたものを見ると書物の原稿です。松陰は江戸に送られるという間ぎわまで、この原稿を書いていたのです。



出発の前夜
 いよいよ五月二十五日出発という前の晩ののこと、ろう役人福川犀之助の厚意で、松陰は一晩だけ杉家に帰ることになりました。

 この夜、杉家では内々の知らせを聞いて、松陰の帰りを、待ち受けていました。半年ぶりになつかしい杉家の敷居をまたいだ松陰に、母は、

「ともかく、まず風呂に入って体をあらうがよい。」

と風呂に入れました。そして、なつかしそうにやせ細ったわが子の背中を流してやりながら、

「大さん、今度江戸へ行っても、もう一度帰れるかい。」

と聞きました。松陰は心の中ではこれが最後の別れだと思いながらも、

「お母さん、ご安心ください。別に悪いことをしたおぼえはありませんから、 きっと帰ってきますよ。」

と事なげに答えました。

 風呂から上がると待ち受けていた親類や友人、門人立ちに囲まれて、夜を語り明かしました。悲しいお別れの会でしたが、松陰はもとより冷静で、自分の覚悟を語ったり、松下村塾のことについてたのんだりしました。家族親類の者も落ち着いていて、涙一つ見せませんでした。



出発の日の朝
 いよいよ二十五日の朝がきました。外には五月雨がふり続いています。家族の人たちや門人との別れのさかずきをかわして、うす暗い玄関に出ました。

「これでお別れでございます。どなたもお大事になさいませ。叔父さまもご大 切になさいませ。」

ふと松陰には弟の敏三郎の姿に目をとめました。弟は気の毒にことばが不自由でしたので、松陰はそれをふびんに思っていました。そして、弟の手をとって言い聞かせるように言いました。

「おまえはものが言えぬけど、決してぐちをこぼすでないぞ。万事かんにんが 第一じゃ。よいか。」

その時、吉田家の養母が声をかけて、

「大さん、わたしに何か一筆書き残してくだされ。」

と紙をさしだしましたので松陰は次の歌をしたためました。

   かけまくも君が国だに安かれば

     身をすつるこそ賎が本意也

 日本の国が安全に栄えれば自分の命はすててもよいと、自分の覚悟を語ったのでした。

 いったん野山獄に帰ってから、改めてあみでおおわれたかごに乗りかえ三十人ばかりの護送役人に取り囲まれて出発しました。



涙松の別れ
 やがて萩の町はずれ、大屋の涙松にさしかかりました。ここは萩を見おろす丘の上で、空をつくような松が数本あり、遠くへ旅をする者がここで別れをおしんだり、遠くから故郷へ帰って来た者が喜びの涙を流すとい所です。

 そこまで来ると、護送役人はかごをとめて戸を開けてくれました。松陰はなごりおしげに萩城下町をながめていましたが、やがて一首の歌をよみました。

   かえらじと思い定めし旅なれば

      ひとしおぬるる涙松かな


 再びかごはあげられ、しとしとふる雨の中を静かに進んで行きました。

 松陰は、それから江戸に着くまでの一ヶ月にわたる道中で、思うところ感ずるところを、歌によみ、詩を作り、少しも悲しむようすはありません。出会った人も、かごの中から詩を吟ずる声を聞いて、深く感動しました。

 この時の道中の歌を集めたものを「涙松集」といい、詩を集めたものを「縛吾集」といいます。



取り調べ
 安政六年七月九日、松陰は幕府から最初の取り調べを受けました。取り調べは、すでにとらえられていた梅田雲浜との関係が中心でした。そこでも松陰はぜひ信ずるところを述べて幕府の役人を悟らせようと、萩を立つときからのかたい決心で臨んでいるのです。

「わたしは梅田雲浜とは関係なく、私自身の考えでやってきました。」

「取り調べ以外のことだが、お前の志のあるところを聞いてやろう。」

松陰は、ペリー来航以来の幕府の対策について、そのよくないところをじゅんじゅんと話していきます。そしてとうとう、

「わたしは間部老中をいさめる計画を立てました。」

と言ってしまったのです。幕府の役人たちは顔色をかえてびっくりしました。「その方の心は、国を思ってのことでろうが、かりにも幕府の老中をたおす計画を立てたことはもってのほかだ。」

松陰はただちに、伝馬町の幕府の牢屋に入れられました。

 松陰はその後、二度の取調べを受けますが、どちらの調べも寛大で、このぶんなら死罪にはならないだろうと思うほどでした。ところが、十月七日には、たいした罪もない橋本左内や頼三喜三郎が死刑になったことを聞きました。つづいて、十六日には松陰もよび出され、これまでのべたことを書き取った調書の読み聞かせがありました。その中には、自分の言わなかったことまで書かれており、その書きぶりから自分の死罪を感じとりました。



別れの手紙
 松陰は、父、母、叔父、兄の三人にあてて別れの手紙を書きます。この手紙には、杉の実母と吉田の養母にあてた文も書いてあります。

「わたしの学問修養が浅いため、至誠がその力をあらわすことができず、幕府の役人の考えをかえることができませんでした。」

と書き出し、次の歌が続きます。

   親思うこころにまさる親ごころ

     きょうの音ずれ何ときくらん


 松陰は死にのぞんでも、人をうらむことなく自分を反省し、何よりも親心をおもいやる人でした。

 また門人たちには、「留魂録」と名付けた遺書を書きます。二十五日から二十六日の夕方まで長い時間をかけ、取り調べのようす、死にのぞむ覚悟、全国の同志の紹介と門人たちとの連絡、さらに、大学をおこして教育をさかんにしてほしいことまで書いてありました。

   身はたとい武蔵の野辺に朽ちぬとも

           留め置かまし大和魂

 この歌から「留魂録」は始まります。たとい、わたしは死んでも、国を思うわたしの気持ちだけは永久に残しておきたいという意味です。わが国の将来を真剣に考え、身をもって実行してきた松陰だからこそ、このような歌が生まれたのでしょう。



絶筆の歌
 きょうか、あすかと待った断罪の日は、「留魂録」を書きあげた翌日でありました。安政六年(1859)十月二十七日、朝早く、ろう役人の呼び出しの声を聞いた松陰は、ふところの紙を取り出し、

   此の程に思い定めし出立は

     きょうきくこそ嬉しかりける

と絶筆の歌をしたためました。第四句の文字が、一字足りないのに気づきますが、その時には、もう、ろう役人に引き立てられていかなければなりません。そこで、「く」の横に「、」を打ったまま筆をおきました。
 評定所での申し渡しは、予想どうり死罪でありました。松陰は覚悟のことでしたから、少しも驚きません。「申し渡しの儀、委細承知仕りました。」と答えて立ち上がるといつものつきそいの役人に向かい、

「長い間、ご苦労をかけました。」

とやさしくことばをかけることをわすれませんでした。

 役人にせき立てられて、くぐり戸を出ると、声高らかに、次の詩を吟じました。

  吾今国の為に死す、死して君親に負かず。

    悠々たり天地の事、鑑照、明神にあり。

「わたしはいま、国のために死ぬのである。死んでも君や親にさからったとは思わない。天地は永遠である。わたしのまごころも、この永遠の神が知っておられるから、少しもはじることはない。」

 これを聞いた役人たちは、心のひきしまる思いがし、「おしい人を殺すがしかたがない。」と思いました。つきそいの役人は、あわてて松陰をかごに乗せいそいで出て行きました。



刑場での松陰
 正午近いころ、伝馬町の獄に帰り、着物を着替え、いよいよ刑場に引かれて行きます。その時の松陰は、同じ牢屋にいた人たちへ別れのあいさつのかわりに、「留魂録」のはじめにある「身はたとい・・・」の歌と辞世の詩「吾今国の為に死す・・・・」を高らかに吟唱しました。牢屋の人も役人たちも、その落ち着きはらった態度に深く心をうたれました。

 獄内に作られた刑場に着きました。松陰は服装を正し、ふところから紙を出してはなをかみ、心静かに座って目をとじました。

 首切り役の浅右衛門があとで人に話したところによると、「自分はこれまでに多くの武士を手にかけてきたが、これほど最期のりっぱな人は見たことがない。」と言ったということです。

 こうして、松陰はいまから百二十年ばかり前に、数え年三十才で刑場の露と消えました。しかし、松陰の志をうけついだ人々によって、明治の新しい時代がつくられ、いまの日本のもとができあがったのです。

 松陰こそ、ほんとうに日本の国のことを思い、至誠をもって一生を貫き通した、永遠に朽ちない人といえるでしょう。

 以上で、松陰シリーズのお話を終わります。

 最後まで、お読みいただき、ありがとうございます。

 萩の松下村塾に、次のようなことが書かれた歌碑がありました。

 
萩に来て

ふと(お)もえらく

いまの世を 救わんと起つ

松陰は 誰      吉井勇

Yamazaki(90/8/14)

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